『べらぼう』女郎を花に見立てた『一目千本』への着手とあえて遊女を花で表現した蔦重の真意
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。
『べらぼう』、第2回もとても面白かったですね。夜の吉原の映像には、江戸後期の女流画家・葛飾応為(かつしか・おうい)の『吉原格子先之図』に描かれた幻想的な輝きを思わせる独特の情緒があって、うっとりさせられました。
次回(第3回)が早くも楽しみな筆者ですが、番組の公式サイトによると、「蔦重(横浜流星さん)は資金を集め北尾重政(橋本淳さん)と共に女郎を花に見立てた本『一目千本』に着手。本作りに夢中な蔦重を許せない駿河屋(高橋克実さん)。親子関係の行方は…」という内容だそうです。
前回のドラマでは、吉原のガイドブックこと「吉原細見」の存在が取り上げられ、それが鱗形屋(うろこがたや)で作成されていることが語られました。また、ドラマのお話を筆者なりにまとめると、江戸の中心地から5キロという微妙な距離感と、お客に課される堅苦しいルールなどが理由で客足が遠のいている吉原ではあるのですが、もう一度、この街に活気を取り戻させたいと考える蔦重が「吉原細見」に注目。鱗形屋の旦那・孫兵衛(片岡愛之助さん)から許可を得て、あの平賀源内先生(安田顕さん)に序文を書いてもらう……というお話だったと思います。
平賀源内は「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称されるマルチタレントぶりを発揮した異才で、戯作の創作者としても人気、ほかにはドラマでも紹介されたような歯磨き粉のキャッチコピーを考えたり、イベントをプロデュースするという仕事もしていました。ちなみに「真夏にウナギを食べると夏バテをしない」という今日にまで続く風習を考案、根付かせたのが平賀源内というのが一番有名な逸話でしょうが、ドラマで紹介されなかったのは、この話に解釈の余地があるからかもしれません。
この話には具体的な史料がなく、どうやら夏になるとウナギが売れないと嘆く鰻屋の亭主に源内先生がアドバイスしたのも、「本日、土用丑の日」と書いて店先に張り出しなさいという一点だった模様です。
ドラマの蔦重は吉原のお座敷で、自分は男色(なんしょく)一筋だよ、と主張する源内先生を接客し、その夜は偶然暇だった花の井(小芝風花さん)の協力も得て、読んで面白く、インパクトのある序文を書いてもらうことができました。
現代語訳でしたが、平賀源内を演じる安田顕さんの朗読で聞くと、粋で興味をそそられる内容になっていましたが、実際にウナギにも具体的な広告文があったかというとそうではなく、「本日、土用丑の日」とだけ書かれた紙を店先に張り出しただけ。
しかしこれを見た好奇心旺盛な江戸っ子たちが「なんだコレは……」と謎解きをはじめ、「あぁ、土用丑の日には『う』のついたものを食べるといいって古い言い伝えがあったな」と思い出す者がいたので、普段なら閑古鳥の夏の鰻屋に人が集まるようになって云々ということだったようですよ。
まぁ、当時の江戸は世界的に見ても高いレベルの識字率を誇った都市ではありましたが、そこまで教養が高く、頭が回る庶民たちはいたのかなという疑問が残る伝説ではありますね。
平賀源内は本当に「男色一本」だったのか?
ちなみにドラマでは「男一筋」と自称した源内先生でしたが、安永3年(1774年)――つまり前回の『べらぼう』のドラマ時系列でいえば、翌年にあたる時期に、「風来山人」という名義で書いた『里のをだまき評』なる文章の中で「江戸前鰻と旅鰻程旨味違はず」といっているのです。
これもある意味、謎解きのような文面ですけれど、「女性のセックスの感想」であろうといわれています。江戸前鰻=吉原の遊女と、旅鰻=岡場所の私娼、どちらと寝ても、さほど味は変わらないよ……と源内先生はほのめかしているのでした。
つまり、史実の源内先生は「男色一本」ではなかったみたいですね。
安永3年(1774年)年の正月(1月)に発売されていたのが、平賀源内の序文を掲載した『吉原細見/細見嗚呼御江戸』だったのですが、その直後といえる時期に「女なんてどこでも一緒」という「アンチ吉原発言」……。現在ならコンプラ違反で源内先生は蔦重から訴えられていたかもしれません。
しかし、蔦重が源内先生と交渉した時から、先生が「アンチ吉原」であることはわかりきった事実だったでしょうから、その源内先生から「嗚呼御江戸(=吉原)」という賛辞を引き出せた蔦重のプロデュース力ってすごかったのだろうなと思ってしまった筆者でした。源内先生からすれば「基本的には男色者の私だから、女の味など、吉原だろうか岡場所だろうが大差ないよ」という話だったのかもしれませんが……。
さて、次回のあらすじに登場した「女郎を花に見立てた本『一目千本』」に着手する蔦重ですが、歴史に詳しい方はついに蔦重も『吉原細見』を作り始めるのかとお考えかもしれません。しかし『一目千本』はあくまで「遊女評判記」。吉原の高名な遊女、人気のある遊女の「似絵」ではなく、あえて彼女たちを美しい花のイラストで表現し、遊女たちの艶姿を見るには吉原に足を運ぶしかないよ、と持ちかける意欲的な内容でした。
また、「吉原細見」なる出版物はいつから出ていたのか? 鱗形屋だけしか出版してはいけないものだったのか? と疑問の方もおられるでしょう。
「吉原細見」が、歴史に初めて登場するのは江戸時代中期の貞享年間(1684-88)のこと。人気が出たのは享保年間(1716―36)になってからでした。当初はさまざまな版元が競合して出版していましたが、そのうち鱗形屋の「吉原細見」が一番という口コミが強くなって、安永年間(1772-81)、つまり20代の蔦重が貸本屋をやっていたころには鱗形屋による独占状態でした。
安永2年(1773年)、吉原で貸本屋を営んでいた蔦重は、鱗形屋版の『吉原細見』の小売を開始していますね。そして、なんらかの理由で鱗形屋の孫兵衛から「吉原細見」のいわば編集長として蔦重が抜擢されたことも確認できます。おそらく蔦重の才覚を見抜いた鱗形屋孫兵衛が、蔦重を抜擢、鱗形屋の花形商品である「吉原細見」のスタッフにしたのですが……、これが孫兵衛にとって「命取り」になりました。
安永3年には鱗形屋の徳兵衛という使用人が、大坂で出版された『早引節用集』という書物のタイトルだけ『新増節用集(しんぞうせつようしゅう)』に変えて出版するという事件を起こしてしまいます。当時の日本には「著作権」などの概念はありませんが、それでもこの手のパクり行為は「重板(じゅうはん)」「類板」と呼ばれ、重大な違反とみなされました。
そしてこの時の騒動がもとで、すでに「吉原細見」作りのためのノウハウを掴んでいた蔦重は鱗形屋から独立し、江戸の町奉行所に願い出て、自分で「吉原細見」の出版するための許可を得てしまうのでした。蔦重版の「吉原細見」には売れるための工夫が随所になされており、鱗形屋が独占していたシェアをジワジワと奪い取っていくのです。
このあたりはドラマでも丁寧に描かれていきそうですから、また次回以降、詳しくお話したいと思います!
(文=堀江宏樹)