『べらぼう』蔦重「耕書堂」が出版した『青楼美人合姿鏡』、瀬川見受けのために作られた北尾重政原画によるフルカラーの錦絵豪華本

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。
『べらぼう』、前回(第9回)も良い内容でした。松葉屋のオーナー夫婦の会話にもありましたが「いまさら?」という燃え上がりを見せた瀬川と蔦重。一時は蔦重から近松門左衛門の『心中天網島』の本と、そこに挟まれた吉原大門の通行手形を前に心が揺れる瀬川でしたが、同じ店の花魁・うつせみ(小野花梨さん)が間夫(まぶ)客との足抜けに失敗し、折檻される姿を見てしまいます。
松葉屋の女将・いねを熱演する水野美紀さんが光ったシーンでしたが、「こんなやり方で幸せになれるわけないだろ」というセリフは重かったですね。
瀬川は蔦重に本を返すついでを装って、「このばからしい話を重三が薦めてくれたこと、きっとわっちは一生忘れないよ」といって自分の気持ちを伝えることしかできなかったのでした。
次回・第10回は、『「青楼美人」の見る夢は』と題して、「瀬川(小芝風花)の身請けが決まり、落ち込む蔦重(横浜流星)。そんな中、親父たちから瀬川最後の花魁道中に合わせて出す、錦絵の制作を依頼され、市中へ調査に出るが…」という筋書きだそうです。
蔦屋重三郎、すなわち耕書堂が、安永5年(1776年)に出版した錦絵本『青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせかがみ)』という実在の書物の製作に結びついた内容になりそうですね。
有名絵師・北尾重政原画によるフルカラーの豪華本で、瀬川が所属する松葉屋はもちろん、扇屋、丁子屋といった吉原の名店の名妓たちが、四季の移ろいの中、豪華な着物姿でお姫様のようにくつろいで過ごしている様子が描かれています。
第一巻にあたる「春夏」の巻の冒頭が松葉屋で、瀬川は雑談に興じる3人の花魁たちとは少し距離を取ったところに座り、書物を手にして描かれているのが(ドラマを見ている我々としてはいっそう)印象的です。
同作は、かなりの費用をかけて作られた本だと容易に想像できます。ドラマではほかの地本問屋とのトラブルで、吉原以外での販売ができなくなってしまっていましたが、実際の『青楼美人合姿鏡』も大半は販売目的というより、「お大尽さまの遊興場」としての吉原遊郭のPRを兼ね、上客に配られたものでしょうか。まぁ、その上客も本を手に入れるにはそれ相応の出費をしないとダメだったのは目に見えていますが。
前回のドラマでは、松葉屋のうつせみが間夫客・小田新之助(井之脇海さん)と会うための花代を自分で稼ごうとヤバい客まで取って、その見返りに「長サマ命」と左腕に入れ墨されて苦しんでいました。また、鳥山検校からの身請け話を(蔦重との仲が急進展したせいで)断ろうとした瀬川にも、松葉屋の女将・いねが「オマエに現実をわからせてやる」とばかりに客を押し付けていましたが、結局、瀬川はすべての客の相手をさせられていました。
蔦重が製作した『青楼美人合姿鏡』に描かれたような優雅さとは正反対の、いくら美々しく着飾ろうと女郎は女郎、ただのセックスワーカーという現実を『べらぼう』はグイグイと描いてきているわけです。
その一方で、花魁は身体が資本。望んでもいない男に抱かれるたびに心身ともにすり減っていくのだから、本当に価値のある上客を見定め、選んで寝ていくしか自分を守る手段がなかったのも事実でした。これが裸一貫で生きるしかない遊女たちの「生存戦略」だったのです。
十代後半から客を取りはじめて、約十年後の年季明けまで生き残れる遊女というのはごく一握りですから、売れているうちにいい客と巡り合って、その中の誰かに身請けされ、なるべく早期に吉原を去るのが一番の幸福といえたでしょう。
遊女たちの「生存戦略」の一つが閨(ねや)の中での手練手管(てれんてくだ)で、彼女たちは絶頂を巧みに演出する技術を習得し、男性客を瞬殺で満足させることに長けていました。吉原用語でいう「ふり」ですが、未熟な絶頂演技では客は興ざめしてしまいます。これを「仕落ち」と呼びました。それで「床上手」という現代でも使われている単語は、演技がうまい遊女を称賛する言葉だったのですね。
どうやって床上手を演じたかというと、実は吉原には「底根の法」といわれる必殺技(?)が存在し、膣の中に湿らせた和紙をそれとなく詰め込んで、男性器からの刺激をなるべくシャットアウトしていました。それゆえ自分のペースで演技もやりたい放題だったそうな。江戸のメンズは“肌色動画”など見られませんから、視覚・聴覚刺激にはきわめて弱かったのでしょうか……。
女性器に和紙を詰めるのは生理時のタンポン代わりでした。つまりタンポンを入れたままでの性行為ですから、奥に入ってしまったらどうなるんだろうとか、客はそれで本当に満足するのかとか、色々と疑問点もあります。
しかしこれが「底根の法」で、「底を入れる」とか「揚げ底する」とも呼びました。まぁ、ぜひ身請けされたいとか、間夫とか、そういうごく一部の男には遊女も真剣に向き合っていたと思いますが……。
看板遊女たちのパーソナリティ
次回はついに鳥山検校に身請けされた瀬川が吉原を去るまでが描かれそうですね。いわゆる「鳥山瀬川」のその後は知られていないのですが、インパクトがある身請け話、あるいは身請け後にまで逸話がある遊女たちについて触れてみようかと思います。
松葉屋同様、吉原の名店・三浦屋の看板遊女が高尾でした。全部で六代、いや十一代までいた……とか諸説ありますが、今回は広く伝わっている説を典拠とします。
高尾が「並外れた美貌と才知の持ち主の遊女」に許された名跡だったことは事実ですが、それと本人のパーソナリティはまったく別。実に個性豊かなのでした。
初代・高尾は通称「子持高尾」と呼ばれ、客との間に授かった赤子を乳母に抱かせ、いっしょに花魁道中を踏んだそうです。当時は女性がエクスタシーに達すると妊娠すると考えられ、「職業女性」としての遊女は客にいかされたりしない!というのが誇りでした。子連れ道中はある意味、恥を堂々と晒す行為でしたが、初代・高尾からすれば間夫との子どもだという信念があったのでしょう。
四代・高尾は「水谷高尾」と呼ばれ、水戸藩の御用商人として苗字帯刀を許された水谷六兵衛に身請けされました。しかし、すぐに水谷の番頭の男と出奔。その後も何人もさまざまな身分の男たちの間を渡り歩き、最後は野垂れ死にしました。大金を払って身請けしたところで、元遊女の妻(もしくは妾)に逃げられた場合、なんの保証も受けられなかったということですね。吉原側も年季中の花魁の足抜けにはあれだけ厳しかったのに、身請け後のトラブルには不関知というアフターサービスのなさもすごいです。
五代・高尾は「駄染高尾」と呼ばれます。かつて彼女が吉原で道中を踏んでいる姿を見て以来、恋心を募らせ、なんとか金を貯めて登楼してきた藍染職人(当時の庶民向けの着物の定番が藍染)・九郎兵衛の真心に触れた高尾は「この男しかいない!」と決意。九郎兵衛は風采の上がらない貧乏人でしたが、「来年の年季明けにはわっちを女房にしてくれ」と逆プロポーズした逸話があります。そして約束通り、元・高尾は九郎兵衛と結婚。二人で切り盛りする工房が大繁盛したそうです。
こういうふうに身請けの前後ですらエピソードに富む名妓たちもいたのに対し、「鳥山瀬川」が鳥山検校の没落後、歴史の表舞台から完全に姿を消したのは、彼女は目立つことを意識的に避けたということなのでしょう。
瀬川演じる小芝風花さんも、4月からBS時代劇『あきない世傳(せいでん) 金と銀2』で、堅気の江戸の町娘を演じるようですが、実際の瀬川も吉原時代をまったく匂わせないような転身をしていたのかもしれませんね。
(文=堀江宏樹)