『べらぼう』江戸初期の吉原が格調高かった理由と俄祭りという「素人演芸ショー」

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。
前回(第10回)の『べらぼう』、とてもよかったですね。蔦重(横浜流星さん)が瀬川(小芝風花さん)に完成した豪華絵本『青楼美人合姿鏡』を手渡し、吉原の格をもう一度上げて、女郎にとっては「楽しいことばかりの吉原にしたい」と夢を語っていました。「これは2人で見てた夢じゃねえの」というセリフには泣かされましたね~。
江戸時代初期の吉原は現在の人形町あたりにあって、その時代の主要顧客といえば、上流武士や大商人たちばかり。「元吉原(もとよしわら)」と呼ばれた時代は、特に高い格式を誇ったといいます。「元吉原」時代の遊郭の営業時間は基本的に昼間だけ。労働などしていない富裕層を対象としていたことがわかります。まぁ、格式が高い=遊女にとって楽しみがある職場というわけではなかったでしょうが……。
それが明暦3年(1657年)の大火事をきっかけに浅草・浅草寺の裏手に色街ごと移転し、「新吉原」といわれるようになりました。場所とともに客筋も変わりました。上流武士たちが経済的には没落し(物価は上昇するのに、武士の給料は江戸初期のまま据え置きなので)、代わりに台頭してきた新興商人たちは「コスパ」にうるさかったのです。
そういう中で、盲目の大富豪・鳥山検校(市原隼人さん)に身請けされた瀬川は、たしかに幸せだったといえる気はしますね。
瀬川最後の花魁道中が、前回のクライマックスでもありました。小芝さんはドラマの中で何度も花魁道中を踏みましたが、その都度、雰囲気を変えていて見事でした。最後の花魁道中は優美で、花の井から瀬川を襲名した頃の「私はやってやるぞ」というギラギラとしたオーラが消えていました。
婚礼衣装を思わせる白無垢の装束も素敵でしたね。「吉原で白無垢か~」と思った方もいるでしょうが、当時は毎年8月1日のことを「八朔(はっさく)」と呼んで、吉原では遊女たちが白無垢姿で客を出迎えました。前回のコラムでもお話した紋日(もんぴ)の行事です。つまり、吉原で白無垢姿の遊女を見かけないわけではなかったのですね。
もともと白無垢は「忌衣(いみごろも)」と呼ばれる神事などで着られた浄衣(じょうえ)が起源の装束です。8月1日は徳川幕府初代将軍・家康が江戸に入場した日として知られ、上位の武士たちが江戸城に白装束で参じる習慣があったそうです。
前回のドラマには蔦重の豪華絵本が、将軍家への献上品となるくだりがありましたが、吉原は芝居小屋と並んで「悪所」とされていた一方、江戸城と隔絶していたわけではありません。
吉原は江戸城の畳替え、煤払いの際に人夫を出し、火事の際にも人員を送ることが決められていました。これは吉原が幕府に営業を許してもらう代わりの冥加金(上納金)とはまた別に課された課役(かえき)だったのです。
俄祭りとは……
さて、次回は「富本、仁義の馬面」と題し、蔦重は親父たちから俄祭りの目玉として、招聘しようとしていた「人気の富本豊志太夫/午之助(寛一郎)から俄祭りへの参加を拒まれる。そこで浄瑠璃の元締め・鳥山検校(市原隼人)を訪ね瀬川(小芝風花)と再会する…」という展開だそうです。
しかし「俄(にわか)祭り」とはなんぞや、という方も多いでしょう。「俄」とは蔦重の出版物での表記で、実際は「仁和賀」の表記でさまざまな史料に散見される気がするのですが、簡単にいうと「素人演芸ショー」です。
吉原における「俄は明和四年(=1767年)秋に始まり、(しばらく断絶してから)安永五年(=1776年)復活(井上隆明『喜三二戯作本の研究』)」とされ、おそらくドラマで描かれる俄も「安永五年の復活」を指すのでしょう。
これが吉原に定着し、江戸時代では陰暦8月――現在の暦でいえば9月半ばくらいの少し涼しくなってきた頃に行われる「秋の名物行事」として有名になっていくのです。しかし、安永5年の吉原俄は春3月に開催されたそうですよ。吉原大門の外側に位置する真崎稲荷神社の祭りにかこつけ、吉原でも俄を開催。吉原にはふだん足を踏み入れない客層にも、生まれ変わった吉原という存在をアピールする目的だったと考えられています。
俄=仁和賀とは、往来で素人による演芸披露が突然(にわかに)始まる……という意味からついた名称なのですが、蔦重の時代の吉原においては、演じ手が遊女たちでした。
吉原俄は人気を呼び、幼い子どもや女性たちも吉原に見物に来るほどの盛況だったといわれます。時代を経るに従い、演じ手は遊女から芸者などに移り変わり、開催も秋に固定されていったものの、伝統自体は長く続きました。
陰暦ではなく太陽暦が採用された明治時代になってからは、吉原の9月を代表する行事となり、春の夜桜、7月の灯籠、9月の仁和賀(=俄)と語り継がれ、明治初期の文豪・樋口一葉の『たけくらべ』にも、子どもたちが「幇間(ほうかん)」と呼ばれた、いわゆる男芸者たちのモノマネをしている様子が出てきます。
現在でも吉原商店街のイベントとして仁和賀は残っており、プロの噺家が呼ばれたりしているようですが、昔はあくまで素人が芸能人のマネを上手にする……というのが見どころだったのです。
さて、前回のドラマでは久しぶりに江戸城の様子が映りましたので、最後に軽く触れておきたいと思います。
1775年(安永4年)、田安家の賢丸は、10代将軍・徳川家治の采配によって白河藩(現在の福島県白河市)藩主・松平定邦の養子となりました。通説では、このときに賢丸は養父・定邦から「定」の文字をいただき、定信と名乗るようになった……とされるのですが、ドラマではいまだに賢丸のままのようですね。
つまりドラマの賢丸(寺田心さん)は、元服前の子どもなのに、義母・宝蓮院(花總まりさん)を動かし、同母妹・種姫(小田愛結さん)を次の将軍とみなされる家治(眞島秀和さん)の嫡男・家基(奥智哉さん)に嫁がせようと画策する陰謀家という描かれ方なのに注目しましょう。
また史実では、賢丸の妹・種姫が安永4年(1775年)11月、11歳で将軍・家治の養女となったことは確かなのですが、明確に家基と婚約していたわけではありません。また元気だったはずの家基ですが、安永8年(1779年)に突然死しており、「次期将軍の義兄となる」というドラマの賢丸=定信の「種まき」作戦は失敗しています。しかし、当初の狙いとは異なる形で成功した部分もありました。
――が、このあたりは複雑です。ドラマの展開を見ながら、また折に触れてお話していこうと思います! それではまた次回。
(文=堀江宏樹)