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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『べらぼう』放送談義21

『べらぼう』蝦夷地をめぐる松前藩の過剰な搾取と藩主・松前道廣の凶暴性の真相と蔦重と歌麿の“夫婦的”描写

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『べらぼう』で松前藩主・松前道廣を演じるえなりかずき。(写真:Getty Imagesより)

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。

 前回(第21回)の『べらぼう』では、西村屋(西村まさ彦さん)が取り仕切った『雛形若菜』に、蔦重(横浜流星さん)がぶつけた『雛形若葉』があえなく惨敗……という一幕が描かれました。

島津家による「身分ロンダリング」

「若葉」の下絵は喜多川歌麿(染谷将太さん)が担当したのですが、版元(主に蔦重)による彫師や摺師への指示や監修が行き届かず、仕上がりは雲泥の差。販売成績にも大きく反映してしまったようですね。

 まぁ、これまで蔦重が関わってきた錦絵で、特にそういう問題は発生しなかったように記憶するのですが、歌麿が「新人」で、うまく仕上がりの要望を言い出せなかった部分も大きいのかもしれません。いずれにせよ、熟練の版元と絵師たちのコンビネーションに、蔦重は太刀打ちできず。耕書堂の「若葉」も「ジェネリック若菜」にすらなれず、という苦い経験になってしまったのでした。

 それにしても最近の蔦重と歌麿ですが、もはや「義兄弟」を通り越し、「夫婦」にしか見えない気がします。これは将来、蔦重が女性と結婚したり、歌麿のほかに目をかけている絵師が登場となれば悶着しそう……。

 さて前回のコラムでは「文字数の加減で鶴屋とのあれこれが語れなかった」云々と言っていた気がするのですが、えなりかずきさん演じる松前藩主・松前道廣についてお話したくなりました。

 家臣の妻の頭のまわりに固定した小皿を鉄砲で撃ち抜くという「ウィリアム・テル」みたいなことをしていたドラマの道廣ですが、実際の道廣にその手の残忍性があったという話は聞きません。

 しかし以前のドラマに、やはり一橋治済(生田斗真さん)の「友人」として登場し、ワインの入ったグラスを傾け、「蘭癖大名」――西洋文化大好き大名と自称していた薩摩藩主・島津重豪同様、松前道廣も相当に風変わりな人物だったのは事実です。

 松前藩があったのは、蝦夷地(現在の北海道)の南西部、現在の渡島半島です。もともと松前家は豊臣秀吉、ついで徳川家康から蝦夷地の支配権を公認され、その蝦夷地での権力基盤が「松前藩」として確立した江戸時代初期以降、莫大な富をもたらすアイヌとの交易を独占していたのです。

 松前藩は江戸時代に270~300程度あった諸藩の中でも、唯一といえる特異な立ち位置でした。当時の蝦夷地で米作は不可能で、松前藩の所領はゼロ扱い。ご存知のとおり、石高の高さ=大名家の格式の高さと考えられているのが江戸時代で、当時の各大名・旗本のリスト『武鑑』では、「無高大名」として最末席に位置づけられるのが松前家でした。

 しかし、松前藩では「請負人」として雇った商人たちを通じ、アイヌの人々から毛皮、魚介類(特にニシン、サケ)、昆布などの海産物を非常な安価で買い取り、これを本州の商人たちに高値で転売して暴利をあげていたのです。ゆえに松前家は「無高大名」でありながら、10万石~20万石相当の大名家に相当する経済力を誇ったのでした。

 しかしその分、アイヌの人々への搾取は苛烈だったと言えます。

 寛文9年(1669年)には、アイヌの首長・シャクシャインとの間に大規模な戦闘が起きています。松前藩が勝利したものの、和人とアイヌの関係はさらに冷え込む結果となりました(「シャクシャインの戦い」)。

 またドラマの時代より少し後の寛政元年(1789年)には、松前藩のアイヌ交易を担当した「請負人」によるアイヌへの虐待に抗議した戦も起きています(「クナシリ・メナシの戦い」)。

 その89年後、明治11年(1878年)に北海道を旅したイザベラ・バードというイギリス人女性旅行家はアイヌの人々を「高貴で悲しげな、うっとりと夢見るような、柔和で知的な顔つき」と評した一方、「日本人のように、(西洋人であるバードを珍しがって)集まってきたり、じろじろ覗いたりしない。おそらくは無関心なためもあり、知性が欠けているためかもしれない」とも書いています(イザベラ・バード『日本奥地紀行』)。

「知的な顔つき」と「知性が欠けている」とは矛盾ですが、筆者なりにバードの言葉をまとめると「知的なはずのに、自分たちだけの殻にこもった人々」となるでしょうか。

 漫画『ゴールデンカムイ』(集英社)にも描かれたようにアイヌは広域的な交易ネットワークを持っていた一方で、政治的には特定の「部族」や「地域集団(コタン)」ごとの独立性が非常に高く、ヨソモノに対して一定の距離感を保つ傾向がありました。

 逆にいうと松前藩との抗争で、数には勝っているアイヌ民族が敗れてきたのは、アイヌ同士の政治的連帯が密ではなかったからなのでしょう。そして19世紀末にバードが感じた、アイヌの人々による他者への「無関心」については、「ヨソモノとは親しくしないほうが吉」という歴史的教訓だったのかもしれません。

田沼意次が感じた蝦夷地開発の必要性

 さて、ドラマには仙台藩医・工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』が登場し、SNSなどでは『ゴールデンカムイ』のファンたちが反応していましたね。同書に記されたロシア船の動向、ロシアが蝦夷地を狙っている可能性、さらにその対策としての蝦夷地開発の必要性を田沼意次が強く感じていたのは史実です。

 幕府が蝦夷地の上知(あげち)について乗り出そうとするシーンもありましたが、この計画は田沼意次(渡辺謙さん)の失脚に伴い、次なる権力者となった松平定信(寺田心さん)によって一時は凍結されたものの、ロシアだけでなく、イギリスなど様々な国々の船が交易を求め、北海道近辺に姿を見せるようになったことが憂慮される事態を考慮され、復活しています。

 そしてこうした対外問題について、松前藩がまともに取り組まず、成果も見せていないとの理由で、寛政11年(1799年)から段階的に蝦夷地を幕府領とする「上知」が始まったのです。

 寛政11年時点では期限付きの「上知」でしたが、早くも3年後の享和2年(1802年)、幕府は「蝦夷奉行」(同年に箱館奉行と改称)を設置、直接支配に乗り出しています。外国に対して明確な危機感を持っていることが伝わってきます。

 さらに文化4年(1807年)には、前藩主・松前道廣が、長年の素行不良を理由に永蟄居(えいちっきょ)――死ぬまで公職追放され、外出禁止、自宅の一室から出ることすらダメという重い罰を与えられ、松前藩全体が奥州梁川(現在の福島県)に転封(領地替え)させられてもいます。

 松前道廣は12歳で家督を継いで以来、藩の豊富な財源を背景に吉原の遊女を妾にするなど、派手な生活を続け、幕府から目を付けられていました。寛政4年(1792年)には幕命で隠居させられ、長男の章広に家督を譲らされていたのです。しかし、道廣は生活態度を改めようともしなかったのでした。

 また寛政8年(1796年)、イギリス船が蝦夷地に来航した際、狩猟にかこつけ(=幕府の目を欺き)、自ら兵を率いて出陣したことも。あわや国際問題となるところでした。

『新撰北海道史(第2巻)』によると、道廣は大の軍学マニアで、自身の流派である「鯤州(こんしゅう)流軍学」を練り上げるほど。道廣とすれば、外国問題に無為無策どころか積極的だというアピールのつもりだったかもしれません。しかし、ピントがずれすぎていました。これらも道廣が「隠居」、「永蟄居」という処罰を受けていく原因になったのでしょう。

 当時、松前道廣のように好奇心旺盛な殿様は何人かおり、その代表格が『甲子夜話』という随筆集で江戸の世相を描いた平戸藩主・松浦静山(まつらせいざん)なのですが、その松浦も道廣から「天下支配の企て」を聞かされ、困惑した経験があったそうで。そんな倒幕計画みたいなことを、外様大名の殿様がペラペラしゃべって許されるわけがありません。

 ドラマでは「北辺に巣食う鬼」として描かれる(らしい)松前道廣ですが、実際の道廣は面白いけど、仲良くなると誇大妄想的な一面が表出する、めんどくさいおじさんだったのではないでしょうか……。

大田南畝、あの遊女の見受け

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

作家、歴史エッセイスト。1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

X:@horiehiroki

堀江宏樹
最終更新:2025/06/08 15:12