『べらぼう』村上春樹よりも格上だった? “インフルエンサー&超エリート武士”恋川春町の数奇な晩年

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。
前回(第22回)の『べらぼう』は、江戸城サイドと吉原サイドが、より密接に交差していく今後のドラマのあり方を示した“伏線回”だったようですね。
それにしてもラストシーンには驚きました。
蔦重(横浜流星さん)に正体を見破られた「花雲助」こと田沼意知(宮沢氷魚さん)が、「仲間に加わらぬか」と言ってくるとは……。「仲間」とは、「蝦夷上知(えぞあげち)」――現在の北海道南西部を所領としていた松前藩とロシアの密貿易の証拠をつかみ、松前藩を蝦夷地から追いやること。そうやって松前藩が独占している貿易の利益を奪い取るという、きなくさい計画に参加しないかというお誘いです。
意知が、誰袖花魁(福原遥さん)以上に「切れ者」と踏んだ蔦重を取り込もうとするのは「ドラマならでは」の展開ですが、危険なニオイを感じたのは筆者だけでしょうか。蔦重みたいなコミュニケーション力の持ち主であれば、どのようにして「かわす」のか、来週が楽しみな筆者でした。
前回は「恋川春町回」でもありましたね。前々回(第21回)の恋川春町(岡山天音さん)は、絵師でありながら、戯作者(=書き手)デビューも遂げてしまった北尾政演(山東京伝・古川雄大さん)の「器用さ」に嫉妬するあまり、蔦重が設けた宴席で大暴れ。文字通り、筆を折ったり、やりたい放題でした。
生真面目すぎて、エキセントリックな人物として描かれているドラマの恋川春町や、春町が先輩のように慕っている朋誠堂喜三二(尾美としのりさん)、それから大田南畝(桐谷健太さん)など、武士なのに吉原へ通い、庶民文化に親しむ人物を描くことも、ドラマ後半のキーワードになってくる「吉原と武家社会との接点」という話につながっていきます。
これまでのドラマでは、「不器用な変人」としてときどき登場する程度だった恋川春町ですが、今後の存在感はもっと大きくなっていくはず。
恋川春町は、朋誠堂喜三二、そして北尾政演と並んで、18世紀後半の江戸出版業界における「三大黄表紙作家」でした。中でも売れっ子だった恋川春町がどれほどの影響力を持っていたかについては興味深い証言があります。
曲亭馬琴(滝川馬琴)によると、春町の新作黄表紙は「1万部がすぐに売り切れるし、追加で1万2~3千部売れることもあった(『近世物之本江戸作者部類』)」とのこと。
18世紀後半当時の江戸にはすでに100万人~120万人の人口があったとされますが、仮に江戸の人口が100万人として、そこで新作ごとに1万部以上が売れる作家となると、その影響力は現在の大ベストセラー作家・村上春樹先生よりも上なんですね。
村上先生といえば、長編小説『1Q84』の「BOOK1」が発売1カ月で100万部突破、『ノルウェイの森』は国内累計で1000万部以上(こちらは超ロングセラー)……という桁外れの人気の書き手です。
しかし、村上先生の新作の販売部数を100万部と仮定して考えると、日本の人口1億2000万人として、120人に1人が買うという程度。恋川春町のほうがさらに2割ほど売れていた計算です。
また、18世紀後半の黄表紙は、1冊あたり50~60文したそうです。「江戸のファーストフード」として知られるカケソバが1杯16文の時代ですから、黄表紙1冊はカケソバ3~4杯分に相当という計算になります。昭和からよく使われている価格設定では16文=400円程度とされるので、それに従うと、50~60文は現在の1250円~1500円くらい。
漫画の単行本や文庫本1冊よりも、ちょっと高いのが、蔦重の時代の黄表紙本の相場だったわけです。当時の黄表紙は十数ページくらいから、長くて50ページ程度で、基本的に読み切りです。前回も“春町文字”――「町」と「失」で、「不人気」と読ませるとか創作漢字で1冊出していましたが、黄表紙に求められた内容は「流行性・時事性・瞬発性」です。人気が出るかどうかは、現在のSNSで投稿をバズらせる感覚に近かったのではないか……と想像されるのでした。
しかし、それが50~60文というのは、江戸時代の庶民には「そこそこ」の出費だったはずで、貸本屋――レンタルして読む人もたくさんいました。この層が春町の本を買う1万人の何倍もいたはずなのです。
それゆえ、恋川春町の同時代への影響力は、現代の村上先生の何倍もあったと考えるほうが自然ではないでしょうか……。恋川春町という書き手も現代風にいえば「作家」より、「インフルエンサー」に近かったのではないかと思われます。
春町も喜三二も“エリート”だった
しかし覆面作家・恋川春町の正体は、前回の本編終了後の「紀行」コーナーでも明らかにされたように、駿河小島藩(現在の静岡市清水区)の藩士なんですね。しかも史実の春町こと倉橋格(くらはしいたる)は、出世コースの超エリート武士でした。
春町の8歳年上にあたる朋誠堂喜三二も、秋田藩のエリート藩士で、他藩との折衝役である「留守居役(るすいやく)」で、当時、様々な藩の留守居役たちは江戸市中の料亭や吉原でさかんに会合を開き、情報交換を行っていたことで知られます。
おそらく恋川春町と朋誠堂喜三二が知り合ったのも留守居役の会合でしょうし、史実では彼らが描いた吉原の光景なども、会合のときに見知った知識が中心だったのではないか、と思われます。
特に恋川春町の出世は目覚ましく、「取次兼留守居添役(とりつぎけんるすいそえやく)」などを経て、藩主との距離がさらに近い「側用人(そばようにん)」となり、最終的には筆頭家老に相当する「御年寄本役(おとしよりほんやく)」にまで上り詰めています。小島藩は石高1万石の小藩でしたが、藩主家は松平(滝脇)家と呼ばれ、徳川氏の譜代大名の中でも特に名門とされる大河内松平家の一族です。
興味深いことに恋川春町が、黄表紙の大ベストセラーを出し続けていたのはまさに彼が出世の花道をひた走った時代なんですね。
そして、春町が小島藩の最高責任者といっても過言ではない「御年寄本役」になったのが天明元年(1781年)。ちょうどドラマの現在の時間軸あたりではないでしょうか。おそらく責任の重い仕事のストレス解消として執筆もしていたのでしょうし、史実ではドラマの春町ほど身軽に吉原に遊びにくることもできなかったはずです。それゆえ、本を出すときの打ち合わせは、蔦重が藩邸に届け物をする演技をしてコソコソと、あるいは無礼講がモットーの狂歌の会の席上で……ということが多かったのでしょう。狂歌師としての春町の号=狂名が、前回にも出てきた「酒上不埒(さけのうえのふらち)」ですしね。
そんな春町が寛政元年(1789年)に出したのが、ときの幕府の最高権力者である松平定信による風紀取締政策を、「それとなく」批判した『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』という黄表紙でした。
当時の松平定信は「文武両道」のモットーを掲げながら、恋川春町が執筆している黄表紙本に代表される庶民文化を厳しく取り締まろうとしていたのです。
江戸の人口の1割以上が読んでいる……つまり現在のどんなYouTuberよりも強い影響力を持ったインフルエンサーである恋川春町に、いくら松平定信という実名は出されなかったにせよ、「それとなく」批判されてしまうだけでも、その衝撃は無視できない凄まじさだったのでしょう。
これまで藩主・松平昌信のお気に入りだったがゆえに、本来であれば厳粛な生活態度が求められる高位の武士であったにもかかわらず、自由にふるまえた春町ですが、そんな彼に松平定信から直々の江戸城出頭命令が下ったのでした。
春町=倉橋格ということは小島藩内の公然の秘密だったでしょうが、蜂の巣をつついたようになったと思われます。結局、春町は病気と称して出頭に応じず、そうやって小島藩と恋川春町の関係を世間に出さぬまま、2カ月後、謎の急死を遂げたのです。享年46歳。自害と考えられますが、江戸時代は覆面インフルエンサーをするのも命がけだったのですね……。
(文=堀江宏樹)