『べらぼう』浅間山、ついに噴火…終末予言も広がるなか蔦重とていの関係はどう“進展”するのか?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。
前回(第24回)の『べらぼう』では、蔦重(横浜流星さん)と吉原の親父様たちによる日本橋進出計画が苦戦する中、日本橋の老舗書物問屋「丸屋」の跡取り娘・「てい(橋本愛さん)」と蔦重の縁組戦略が急浮上。
ドラマの公式ページでは「謹厳実直で控えめな女性だが、それが故に損ばかりをしてきた過去をもつ」と紹介されている彼女は、放蕩目的で老舗の「丸屋」に婿入りした夫に苦しめられた過去を持つみたいですね。
ていは分厚い眼鏡をかけていますが、それは彼女が幼少時代から書物を大事にし、読書に親しんだ結果なのでしょう。「本のあるなしで人生は天と地ほど変わる」という彼女の父親の口グセを聞いた筆者周辺の編集者からは、「雑誌や書籍編集の末席に座る身としては、涙が出そう」という声も聞かれました(笑)。
さて次回は、ついに江戸時代を代表する自然災害「天明の(浅間山)大噴火」が描かれるようです。ドラマのあらすじを見ると「蔦重(横浜流星)が日本橋進出に躊躇する中、浅間山の大噴火が起こる。蔦重はこの機会を好機と捉え、てい(橋本愛)を訪ね、降灰からこの店を一緒に守らないかと提案する」とのことで、蔦重、なかなかの勝負師ですね。
ドラマ予告編では、江戸の家々の屋根にも灰が分厚く積もり、昼でも空が暗い様子が描かれていましたが、当時の記録はどうだったのでしょうか。今回は、この浅間山大噴火のお話をしたいと思います。
歴史的には「天明大噴火」と呼ばれている浅間山の噴火は、天明3年(1783年)7月8日の午前10時頃から始まった大噴火とそれに伴う災害を差すことが多いのですが、実はこの年の4月くらいから浅間山はずっと小規模噴火を繰り返していました。
同年6月28日以降は連日、かなりの規模の噴火が見られたそうですが、浅間山近隣地区の農民たちには貧しい者が多く、彼らには移動の自由もないため、現在のようには避難不可能という厳しい現実がありました。
「どうか収まってください」と神仏に祈ることしかできなかったのですが、それが虚しい願いであったと思い知らされたのが、7月7日、8日の火山活動だったのです。
7日の夕方から翌日未明にかけ、噴火は激しくなる一方で、「吾妻火砕流」まで発生。火砕流とは火口から噴出した溶岩、火山灰、ガスなどの混合物が超高速、超高熱流下する現象のことで、流れた後の土地を黒焦げにしてしまいます。このときは浅間山北東方向の原生林が燃え尽きました。
そして翌8日の午前10時頃、最大規模の噴火――というより大爆発が起き、さらに浅間山の北側斜面から時速100キロメートルで流れ出した「鎌原(かんばら)火砕流」によって、付近の村々は一瞬にして埋め尽くされてしまいました。
厄介なことに火砕流は大量の土砂をともないながら吾妻川に入っていったので、川底まで埋められせき止められた川の流れは決壊し、吾妻川の下流である利根川の流域まで洪水に見舞われたのです。
その後、浅間山からは「鬼押出しの溶岩流」も流れ出しました。
世に広まった「世界が終わる」終末予言
二重、三重に被害が重なっていく中、浅間山が吹き出す粉塵は成層圏にまで到達し、空は夜のように真っ黒になって、雷鳴が激しく鳴り響いたそうです。
それはこの世の終わりを予感させるほどの光景で、実際に現地では「来年の4月にさらなる噴火が起きて、世界が終わってしまう」という“終末予言”さえ広まったのでした。
浅間山が大噴火を起こしているとき、約140キロ離れた江戸の人々はどうしていたのでしょうか?
町家の障子は、浅間山の天変地異を反映し、ガタガタと音を立てて揺れ動き、それまではカラッと晴れていた空も一転、怪しくかき曇って灰が降り注いできたそうですよ。そして、その2年くらい後まで、空が明るく晴れることはなくなり、関東全域で日射不足で農作物が不作という二次被害まで起きたのでした。
まぁ、そういう中で吉原から日本橋の「丸屋」まで蔦重が駆けつけてきてくれたのであれば、それはそれで「てい」の彼への評価を劇的に向上させるきっかけになったかも……。
一番大変だったのは、幕府による救護活動が本格化する約1カ月後まで自力で何とかするしかなかった浅間山付近で生き残った人々なのですが、江戸の町の人々もそれなりにピンチでした。先述のとおり、関東近県は数年にわたって日照不足となり、農作物が育たず、食糧不足となったからですね。
この年の秋、江戸では米の値段が例年よりも5割アップ。田沼政権は幕府の蔵から「備蓄米」を放出し、とくに貧しい者たちに1日あたり3合ずつ配っています。
歴史気象学的にいうと、ただでさえ当時の世界は「小氷河期」と呼ばれる秋冬の厳しい低温が特徴的な時期にあたっていたので、1783年の日本は記録的な冷夏で、そこに噴火による日照不足が凶作へのダメ押しとなったのです。
ドラマでも佐野政言(矢本悠馬さん)の認知が衰えた老父が、暦の上では夏になっているのに「そろそろ春か?」などと言っていましたが、まさにあれは当時の状況を踏まえたセリフだといえるでしょう。当時は照明代や光熱費が現在とは比べ物にならないくらいに高くついた時代ですし、もちろん米だけでなく食費全般が急上昇していたはずです。
庶民が食うことにも事欠く時代に、果たして蔦重がどうやって本屋を営んでいけたのか……という問題については、次回以降のドラマに合わせてお話していきましょう。
浅間山大噴火は日本史だけでなく、世界史上の大事件でもありました。
実は同時代のヨーロッパにさえ、浅間山の噴火の影響と考えられる現象が見られたのです。
18世紀後半のイギリスの博物学者であり、聖職者でもあったギルバート・ホワイトの記述によると、浅間山大噴火があった1783年の夏のイギリスでも異常現象が発生し、「ふしぎな霞か雲のような霧」が、何週間にもわたってイギリス本土からヨーロッパ全土さらに他の地方にまで立ち込めたのが観測できました。
イギリスでは、浅間山よりちょうど1カ月前に大噴火したアイルランドのラキ火山の影響のほうが強かったでしょうが、浅間山とラキ火山のふたつの大噴火によって、世界の多くの空は長期間にわたって曇りました。
イギリスを中心としたヨーロッパの北側では、ギルバート・ホワイトがいうように「太陽は雲がかった月のように白っぽく」見え、「日出と日没のころにはとくに血のような凄い色」の空になったことで人々を恐れさせたのでした(以上、桜井邦朋『夏が来なかった時代: 歴史を動かした気候変動』)。
この当時から19世紀前半にかけてのヨーロッパの画家たちが描いた空が、往々にして我々が見ている空よりも物々しく描かれているのは、浅間山とラキ火山の大噴火の影響だったと見る学者もいます(興味がわいた方は、イギリスのジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの風景画や、ドイツのロマン主義絵画の作品をどうぞ)。
ちなみに先述の小氷河期は1300年代から1850年くらいまでの現象とされますが、18世紀末から19世紀半ばにかけ、世界中を寒冷な気候が覆った中で、日本では徳川幕府が倒れましたし、フランスでは1789年の「バスチーユ襲撃」以降、「革命」が何度も起こされています。
これらは全世界的な異常気象、そしてそれに伴った食糧事情の悪化という社会不安に悩まされ、不満だらけの庶民たちが「暴動」という形で政府を攻撃するようになり、それを政府も抑え込むことができなかった結果こそ「革命」――つまり国家転覆につながったと読めるのではないでしょうか。
今回は予告編の本格的な被害描写を見て、思い出したことをお話してしまいましたが、「自然に人間は逆らえない」ということは、江戸時代も現在も変わらない真実のようですね。
(文=堀江宏樹)