『あんぱん』第73回 次々に発生する矛盾と違和感、覚えているすべての情報がノイズになる

昨日は突然歌い出したメイコ(原菜乃華)に「うるせえなあ」と思ってしまって悲しかったのですが、今日は釜じい(吉田鋼太郎)が咳き込んだ瞬間に同じことを思ってしまいましたね。うるせえんだよ、おまえもそろそろ死ぬんかと。
やりたいことはわかるんですよ。のぶ(今田美桜)が初めて作った雑誌を家族みんなで読んで、幸せの絶頂という場面。その裏で、大きな悲しみの影が忍び寄っている。そういうコントラストをやりたいのはよくわかる。その意図が、もう額面通りに受け止められなくなっているんです。
なぜなら、この幸せの絶頂、家族とご近所の和気あいあいシーンも作り手側の欺瞞に満ちているからです。
のぶの発信がメディアに載ったのはこれが初めてではありません。入社早々、のぶは高知新報の一面を射止めています。まさか「月刊くじら」の2,000部という発行部数が高知新報の本紙より多いということはないでしょう。「くじら」以上の大メディアの一面を娘の記事が飾ったとき、この人たちはノーリアクションでした。のぶ自身も「明日の朝刊の一面に私の記事が載るよ」と家族に報告した気配もない。
例えるなら、プロ野球選手になった息子がプロ入り第1号ホームランを打ったことに家族もご近所も本人もまったく無関心で、第2号に狂喜乱舞しているという構図です。そんなの誰が納得するというのだろう。
そうした視聴者が抱いて然るべき違和感を作り手側が感じ取れていないのか、あるいはあえてシカトしているのか、そんなのはどっちでもいいんだけど、私たちがNHKさんからナメられてることだけは確かなんですよ。どんな顔でこんないい加減な脚本を書いてるんだろう。NHKのお偉いさんたちは、どんな顔で試写を眺めているんだろう。その顔を見てみたいもんです。まさか、あの嵩(北村匠海)の4コマを見て「出ました! 朝ドラ名物ヒロインの水落ちだね!」とか言ってねえだろうな。
朝の連続テレビ小説『あんぱん』第72回、振り返りましょう。
2つの「史実」との対比
社会部から「くじら」編集部に移動になった嵩、その「ボクが全然役に立ってなかったので」というセリフに、東海林編集長(津田健次郎)が爆笑しています。
ここも醜悪なシーンだったな、と感じるんですよね。マンガはすぐ描けるけど、ほかには何にもできない人として嵩を描いている。
ちょっと史実をかいつまんでみたところ、当時の高知新聞社の入社試験では実際に取材に出て記事を作るというテストがあったんだそうですね。のぶの入社試験でやってたやつ。
やなせたかし氏はそのテストで、取材しているほかの受験者を取材するという独自の切り口を披露して、社会部に採用されているそうです。実に、後の大クリエイターらしい素敵なエピソードです。
一方で劇中の嵩くんは、マンガ以外まったく無能であるとされている。すげえ当たり前のことなんですけど、マンガなんて手段にすぎないわけですよ。おもしろいマンガを描ける人は話をしたっておもしろいし、文章を書いたっておもしろいんです。その表現の出力先が、たまたまマンガだっただけなんですよ。作家のバイタリティというのはそういうものだと思うわけです。
この描き方だと、嵩は全然おもしろくなくて、役立たずで、ただペンを持たせれば手先が器用であるというだけの人になっている。そのマンガに嵩という人物の本質が反映されていない、その作品に魂が入っていない、ロジックとしてそういうことになっているんだけど、これはたぶん作り手は気付いてないんだろうな、気づいてたらこうは描けないもんな。だって脚本の中園ミホ氏は本人と文通してたんでしょ、これだと「やなせさんと文通してたけど、文字ばっかりだったから全然クソつまんなかったよ」と言っていることになりますからね。
「のぶさんのおかげ」をやりたいあまり、嵩の入社の段取りを史実から変更したことで、モデルのやなせ氏の本質を著しく毀損する結果となっております。
一方で、のぶさんのほうは広告費の回収に訪れたところでハンドバッグを振り回したという史実があるそうです。こちらは史実通り描かれています。というか、たぶんディテールは全然違うんだろうけど、いちおう史実が「採用」されている。
嵩の入社については史実を変更したことで失敗していますが、のぶのハンドバッグ事件については史実を採用したことで失敗しています。
のぶたちがあの質屋から広告を取れた理由は、ご主人の計らいによるものでした。飲み屋でよく会うオネエチャンこと琴子さん(鳴海唯)の顔を立てるために、ご主人は広告の出稿を決めている。このご主人が「粋でいなせな御仁である」という事実こそが、唯一絶対のファクターであったはずなんです。
そのご主人が代金の支払いを忘れている。粋でいなせな御仁がオネエチャンの顔を立てるために広告を入れて、そのオネエチャンの顔に泥を塗ることをやっている。ひとりの人物の中で、大いなる矛盾が発生している。
以前、釜じいやくらばあ(浅田美代子)が嬉々として記念写真に納まりながら、後になって「魂が吸い取られる怖い」などと言い出したことがありました。まあ、長い朝ドラだからそういう小さな矛盾があってもいいよ、それくらい広い心で受け止めましょうと思っていたところだけど、この質屋のご主人については「広告出すよ」「金払うの忘れてたよ」というワンアクション・ワンリターンですよ。たった2つの場面でさえ整合を取れないなら、じゃあ何ができるのよと思っちゃうよ。
惜しむらくは、この質屋のご主人って「くじら」の大恩人だったわけですよね。後々、あの人のおかげで今があるんだよなって思い出せるような、魅力的なキャラクターになりえたと思うんです。そういう人が、いとも簡単にゴミ箱に放り込まれた、そういう印象を残して去っていくことになるのが、本当に残念なんですよ。まあ、「くじら」そのものもポイ捨てされることになるんだろうけどさ。
「東京」
へえ、のぶさん東京に行きたいんですか。のぶと嵩が顔を合わせていて、そこに「東京」というキーワードが登場したとき、2人の胸に去来する思い出はありませんか?
嵩が東京から電話をかけてきて、「いつかのぶちゃんも東京に」と誘って、あなたは何を言いましたか? なんかこっぴどく怒鳴りつけていませんでしたか?
嵩が赤いハンドバッグを持ってきたときも、それを拒否して「さっさと東京へいね」と言いませんでしたか?
一方の嵩は嵩で未練たらしくも、赤いハンドバッグを提げたのぶさんを銀座の雑踏に立たせた絵を描いて悦に入っていませんでしたか?
史実としては単に取材旅行だったとしても、『あんぱん』が描いてきた架空の「史実前夜」によって、この2人にとって「東京」はすでに別の意味を持っているはずです。のぶにとって「東京」はチャラついた快楽主義の象徴であって、嵩にとってはのぶを連れていきたい夢の場所だった。
2人の歴史を描くためにあえてフィクションを創作して、その歴史をまるでなかったかのように扱っている。じゃあ私たちは何を見て、何を覚えていればいいの? 今までのことを全部忘れて「なんでうちは、いくつになってもこうながやろ」とかモジモジしてる今田美桜をただ眺めて、いまこのときだけを眺めて、そのかわいいお顔にニヤついてればいいわけ?
だいたい「こうながやろ」ってどうながなんだよ。岩男を下駄でブン殴ってから数十年、あんたが「こうなが」だったことなんて一度もないぞ。ホントに、視聴者をバカにするのもいい加減にしてもらいたい。
(文=どらまっ子AKIちゃん)