『あんぱん』第88回 写真について登美子さんに失礼を申し上げたことを謹んでお詫びいたします

うーん、次郎さんの写真を仕舞ったのはのぶ(今田美桜)だったんですね。昨日の段階では、この「仕舞った人クイズ」の解答は確率でいえば登美子(松嶋菜々子)7割、のぶ3割くらいで受け取っていたので、まあ誤読していたことになります。
描かれた状況から私が読み取ったのは「登美子が黙って仕舞って、のぶもそのままにしている」という状態か、もしくは「登美子が酔いつぶれている間に、のぶが何か思い当たって自分で仕舞って、登美子がそれに満足している」という状態のどちらか。いずれにしろ、登美子が直接的なトリガーになったとしか読めなかったわけですが、今日の回では嵩(北村匠海)がこう言っています。
「僕がここに来てから、次郎さんの写真ずっと仕舞ったままだから」
つまりドラマは、のぶが写真を仕舞ったのは嵩に気兼ねしたからという理由が100パーであって、登美子の来訪は関係ないと言っているわけです。
これは、まさかでした。そういうパターンがあるとは思ってなかった。
なぜなら、まあ言うまでもないんですが、のぶが写真を仕舞ったであろうその瞬間に、同じ部屋に登美子がいたからです。ここまで、『あんぱん』というドラマは人物を「登場させる/させない」という選択において、とことんご都合を通して作られてきました。そこにいるはずのない人物、言うはずのないセリフが、ストーリーを進行するためだけにドンドン登場してきた。その節操のなさは常軌を逸していて、まさに「ご都合至上主義」といった趣の作品だったわけです。
そして、そのご都合の象徴として神出鬼没ぶりを発揮してきたのが、登美子というキャラクターでした。物語を転がすために現れ、役割を終えれば消えていく。画面に存在していない期間は、生きているか死んでいるかすらわからない。登美子のそうした珍妙な「使われ方」を眺めているうち、私たちの中で「登美子が出てきたら話が転がる」という謎の信頼感が生まれていたんでしょうね。この人が真っ当な感情や倫理観を持ち合わせていないことについてはとうに納得済みですので、勝手に次郎さんの写真を仕舞うくらいのインモラルをやってきても不思議じゃないと、いつの間にか認識させられていた。
それともうひとつ、嵩がのぶを訪ねてきた日の話です。のぶも嵩も「この部屋で今日から一緒に暮らす」という選択肢を、明確に否定しています。嵩に「八木の家に泊まる」という無理筋を披露させて、「女の家に転がり込むような男ではない」という慎ましさを演出している。以降、百貨店の面接を受けてから中目黒の長屋を紹介されるまで住所不定という不自然な状態を作ってまで、ドラマは嵩に「この部屋で一緒に暮らさない」と繰り返し主張させている。
もうシンプルにね、一緒に暮らさないならこのタイミングで写真を仕舞わなくてもいいじゃんという話なんですよ。のぶが嵩に気兼ねして写真を仕舞ったというのなら、嵩は一緒には暮らさないけど頻繁にこの部屋に来る意思があるということになる。そして、その意思を理解しているからこそ、のぶは写真を仕舞ったわけですよね。でも実際には面接から採用まで姿を消していたようですし、中目黒の長屋決定という報せを受けたのぶは「うちはどんな部屋でも大丈夫や」と、中目黒での同棲の意志を明かしています。
よくわからなすぎるのよ。有楽町では同棲できないけど中目黒ならオッケーな理由もわからんし、のぶが嵩に抱きついた日から嵩の上京の日までの数か月、次郎さんの写真を飾り続けていた心情もわからん。
自分が嵩への思いに気付いて、嵩から告白されてその感情が爆発して、「嵩の2倍スキ!」などと口走ったその日に写真を仕舞ったのなら話はわかるんですけど、嵩が居座りそうだから仕舞うというのは姑息と言いますか、のぶという人が自分自身と故・次郎さんの現在の関係性について何も考えてなかったことの証左になっていると思うんです。写真を仕舞うタイミングなんて自分が次郎さんのことをどう考えているかだけを根拠に決めればいいことであって、新カレができたけど仕舞わない、新カレに見られたら気まずいから仕舞うというのは、次郎さんに対してひどく残酷な仕打ちに見えてしまうわけです。
さんざん「のぶアゲ」をやってるドラマの中で、作り手はのぶをそんな残酷な人物に描こうとは思っていないはずで、だとすればやっぱりトリガーは傍若無人の女である登美子のような気がしていた、というのが、どらまっ子AKIちゃんが誤読をした理由というか、まあ言い訳ですね。登美子ごめんよ。
あと嵩は高知新報の入社試験のときも今回の百貨店も、履歴書の「現住所」になんて書いたんだろうね。
第88回、振り返りましょう。
「意外にも」とは
なんだかんだで百貨店の宣伝部に配属された嵩くん、「仕事が速いねえ」なんて言われています。確か「くじら」では、のぶの送別会に出られないほど仕事が遅いことでお馴染みだったはずですが、ナレーションでも「(嵩は)意外にも活躍し、忙しくしていました」と「仕事が速い説」を補強してきます。しかも「意外にも」という悪口まで添えて。
これ、たぶん「嵩がのぶと付き合ったから仕事ができるようになった」と言おうとしているんですよね。のぶと上手くいってないときは仕事ができない、のぶとヨロシクやれるようになったから、仕事もできるようになった。そういうトホホなダメ男キャラとして嵩を描こうとしている。
ここで林田アナの言う「意外にも」は嵩への悪口であると同時に、やなせたかし氏への悪口にもなっているのが始末がよくないんです。恋愛にウジウジ、弟への劣等感でウジウジ、そういうパーソナルな部分は百歩譲って脚本家が勝手に創作したっていいと思うけど(それでおもしろくなるならな!)、仕事のクオリティを左右するのが「のぶとの関係如何である」と定義するのはいささか乱暴ですし、失礼なんだよな。
このあたり、なんか脚本家自身が「私はやなせ先生とも関係性あるし、きっと先生も天国で笑ってくださってるわ」と思ってやってる感じがして不快なんですよ。『アンパンマン』とその作者は国民的なヒーローであって、みんなが大切な思い出として心に抱いているものであるはずです。だからこそその生涯をモデルにドラマ化するという企画が通ってるわけだけど、なんかこのへんのリスペクトを欠いたスタンスがね、脚本家による一般庶民へのマウンティング、もしくはやなせ氏の私物化という印象を与えているわけです。私はあんまり『アンパンマン』に思い入れがないから「クソダセーことやってんな」くらいに受け取ってますけど、激怒する人の気持ちもわかるよ。
嵩だけが知っている
きょうのクライマックスは涙、涙のプロポーズ。千尋の不倫願望をご開帳しちゃう無神経ぶりについては、さっき「百歩譲って勝手に創作していい」と書いてしまったのでスルーしますが(おもしろくなってないけどな!)、嵩がのぶに伝えた「僕だけが知っているのぶちゃん」像が、ことごとく私たちの知ってるのぶちゃんと違う、別人の話に聞こえてしまうわけです。
「誰よりも、のぶちゃんの強い部分も弱い部分も知ってる」と言いますが、のぶが嵩に弱みを見せたシーンなんて父親が死んだときと教師を辞めるときくらいで、これを言うには明らかにエピソード不足です。なんかほかにもあったかもしれないけど、印象に残ってないもんな。
「みんなを助けたいって愛情も知ってる」については、高知で小学校の生徒も戦後の浮浪児も、その全員を見捨てて上京していますので「みんなとは?」としか思えない。「まっすぐ」って言われても、職歴とか全然まっすぐじゃない。
急に知らない美男美女が出てきて、コスプレ姿でプロポーズしてるようにしか見えないんですよ。それをシーン単体として見れば別に気分の悪いもんじゃないし「お幸せに、知らんけど」とは思う。でも、じゃあ「ドラマとは?」って話ですわ。
あと、どうでもいいけどガード下の娼婦の2人組、『M-1』の2回戦くらいで落ちてる漫才師みたいだなと思いました。「ヤミノオンナ」みたいなコンビ名で。どうでもいいですね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)