押尾学に続き酒井法子が…2009年夏の同日に起きた薬物事件の衝撃

猛暑の8月になると、芸能記者として思い出す事件がある。2009年8月に起きた、元俳優・押尾学氏と、俳優・酒井法子のドラッグ事件だ。
8月3日、当時、人気俳優だった押尾氏が、合成麻薬「MDMA」を服用したとして、麻薬及び向精神薬取締法違反の疑いで逮捕された。前夜2日夜、六本木ヒルズのマンションの部屋で一緒にいた飲食店従業員の女性(当時30)が薬物中毒死しているのが見つかり、この部屋に出入りしていた押尾氏が任意同行の末、事情聴取を受け、薬物が検出されたのだ。
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その後、女性に対する保護責任者遺棄致死罪等で起訴された押尾氏は、致死罪の成立こそ認められなかったものの、保護責任者遺棄罪と認定され、懲役2年6月の実刑判決を受けた。
芸能界に衝撃を与えた大事件だったが、同じ8月3日、酒井の当時の夫・高相祐一氏が渋谷区の路上で、覚せい剤を所持したとして現行犯逮捕された。しかも、現場に駆けつけた酒井は警察から任意同行を求められたものの、「子どもがいるので」と現場から立ち去り、そのまま行方不明に。その後、家宅捜索の末に彼女自身にも逮捕状が出され、世間を騒然とさせた。
子どもの頃から芸能界に憧れていたという酒井は、参加したオーディション企画がきっかけとなり、芸能プロ「サンミュージックプロダクション」にスカウトされ、福岡から上京。当時、事務所の社長だった相澤秀禎氏(2013年、享年83歳没)の自宅で下宿生活を始めた。
酒井が入った部屋は、1986年4月に事務所の屋上から飛び降り自殺した岡田有希子さんがかつて住んでいた部屋だったという。相澤氏は、取材を通じて親しくなった筆者に、「自殺する3日前、ユッコ(岡田さんの愛称)が僕の自宅に食事に来たんです。なんとなく元気がなかったから、『お前がこれからうちの会社を背負って行くんだから、頑張らなきゃダメだよ』と声をかけると、『私なんかもうダメだから。後に良い子(酒井法子のこと)がいるじゃない』と返してきた」とその時のエピソードを語ってくれた。
翌1987年2月、「男のコになりたい」で歌手デビューした酒井は、岡田さんの期待通り、トップアイドルに上り詰めると、その後、アジアへの進出も果たし、中国圏で大スターに。他方、1990年にはNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』にレギュラー出演するなど、俳優業にも進出すると、1993年に放送されたフジテレビ系人気ドラマ『ひとつ屋根の下』での好演で女優として不動の地位を築いた。
転機となった結婚とその後の転落
「ところが、1998年に高相祐一さんと結婚し、状況が一変しました。相澤氏は交際段階から、定職を持っていなかった高相氏との結婚に反対していましたが、結局、できちゃった婚だったこともあり、認めるしかなかったんです」(当時を知るスポーツ紙記者)
その後、男児を出産し、幸せな結婚生活を送っているかにみえた酒井だったが、内実は高相氏に振り回されているという噂が流れていた。
そんななか、筆者は2009年1月、酒井夫婦がドラッグパーティーに参加しているという情報を得た。そこで、相澤氏に会って伝えると、驚いた相澤氏は「法子に確認する」という。後日、相澤氏から「本人は全くのデタラメだと否定している」と聞かされた筆者は、確かな情報だからと再度念押ししたものの、「あまりしつこく尋ねると、“独立する”と言いかねない」というので、それ以上、追及することはなかったようだ。
高相氏が覚せい剤所持で現行犯逮捕されたのは、それから約7カ月後のことだった。しかも、逮捕状が出た酒井は行方不明となっていた。
「逮捕状が出たため、酒井は“逃亡”ということになった。清純派女優のイメージが強かった酒井が覚せい剤使用に関与している疑いがあるうえ、しかも、逃亡したとあって、世間は大騒ぎになりました。事務所が逃亡の手助けをしているという疑惑も囁かれ、相澤氏は激怒していました。その後、手助けをしていたのは母親の親しい友人の建設会社の会長だったことが判明しています」(夕刊紙記者)
逮捕を受け、サンミュージックは彼女との契約を解除。酒井は懲役1年6か月執行猶予3年の判決を受けた。その後、執行猶予が明けた2012年11月に復帰した酒井は、現在まで地道な芸能活動を続けている。
「あれから16年。この夏、更新したInstagramでも衰え知らずの美貌にフォロワーが沸いていましたが、実際、彼女の美しさは変わりません。しかし、地上波ドラマからのオファーはナシ。清純派女優としては事件おインパクトが強すぎました」(元ドラマ関係者)
8月の猛暑が続くと、2009年の夏を思い出さずにはいられない。
(文=本多圭/ジャーナリスト)
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