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本多圭の『芸能界・古今・裏・レポート』

「演歌界のドン」「氷川きよしの育ての親」…私が見た長良じゅん社長の素顔

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 人気演歌歌手・氷川きよしの芸能界の育ての親として知られ、“演歌のドン”と呼ばれた「長良プロダクション」の長良じゅんさん(本名・神林義忠、享年74)が2012年5月2日、旅行先のハワイのゴルフ場で不慮の死を遂げてから、13年の歳月が流れた。

 私は、長良さんの訃報を、孫を連れて『鴨川シーワールド』(千葉県鴨川市)に向かう電車の中で受けた。まさか、長良さんがゴルフ場で事故死? 孫たちには気の毒だったが、『鴨川シーワールド』に行っても、ショックのあまり上の空だった。それほど長良さんの存在は、芸能界を取材するにあたって、インパクトがあった。 

 1959年に開催された第1回日本レコード大賞では、『黒い花びら』を歌唱した水原弘さんが初のグランプリを受賞したが、長良さんは、その水原さんのマネージャーを担当していたこともあって、“賞レース”に強いこだわりを持っていた。

 今や年末恒例となった日本レコード大賞だが、長良さんは、年が明けると、いち早く“事前運動”に動き出していた。審査に関わる音楽評論家やスポーツ紙記者、テレビ局幹部への接待に明け暮れるのだ。昔は、夜の銀座の高級クラブが主な接待場だったが、私が、歌手の山川豊(1981年の歌手デビュー時から2020年まで長良プロ所属)の取材を通じて長良さんに会うようになった頃は、六本木の高級クラブが主戦場だった。

 ちなみに、今年3月1日に亡くなった、“日本一忙しい司会者”・みのもんたさんが銀座のクラブで、グラスにクラッシュアイスをたっぷり入れ、ウイスキーを注いで飲んでいたことはよく知られているが、長良さんは、みのさん以前から、同じ飲み方をしていた。しかも、必ず付いたホステスや店の男性従業員にチップを渡すことを忘れなかった。実際、長良さんが5千円札の束を胸ポケットから出しているのを目撃したことがあったので、チップの額は5千円だったと思われる。

 その長良さんに頼まれて、氷川きよしの名付け親になったビートたけし(真相は後述)は、銀座の高級クラブに飲み行く際には、手製の天使のマークが入ったポチ袋に1万円札を入れて、ホステスや男性従業員、ポーターらに渡していた。

 話を元に戻そう。

 長良さんは、接待する相手とはほとんど仕事らしい話はせず、ホステスをからかったりして、その場を和ませていた。接待客を飽きさせない話術を持っていた。なぜ私が詳しいのかと言えば、長良さんから「会わせたい男がいる」と呼ばれ、指定された場所の多くが六本木のクラブだったからだ。

 “会わせたい男”とは、当時、長良プロに所属していた梅宮辰夫さんをして、“稀代のワル”と激怒させたタレントの羽賀研二だった。彼が東京・大田区在住の資産家女性に架空の沖縄リゾート開発計画を持ちかけていたことを、私が専属記者を務めていた女性隔週週刊誌『微笑』(休刊)がキャッチし、取材を進めていた。

 そこで、長良さんから私に「記事を止めることはできないか?」と相談があったのだ。その頃、羽賀のスポンサーは、“浪花の住専王”と呼ばれた末野興産社長の末野謙一氏で、末野氏と梅宮さんが昵懇の仲だったことから、梅宮さんを通じて、長良さんも末野氏とは親しい関係だったのだ。

 その後、住専問題が社会問題に発展した際、写真週刊誌『フライデー』が末野興産主催のハワイ・ホノルルでのゴルフコンペ時の集合写真を掲載したが、その中に、長良さんが写っていた。しかも、長良さんだけが黒塗り。長良さんに可愛いがられていた当時の『フライデー』の担当者が気を利かして黒塗りにしたようだが、この写真を見た長良さんが「逆に目立つ」と怒った、という笑えない話があった。ちなみに、このゴルフコンペが行われたハワイには、羽賀と梅宮アンナもいて、ゴルフをしない2人はその時に急接近したという。のちに“平成のバカップル”と呼ばれ、ワイドショーを賑わせたのは、芸能史に残る出来事だろう。

 ともあれ、長良さんからの、「羽賀の記事を止めてほしい」という依頼は断った。後日、長良さんから「羽賀に会ってほしい」と呼ばれて行った先が、六本木の高級クラブ『S』だった。「羽賀は良い奴だ」と盛んに誉めたてる長良さんの傍らで、羽賀は土下座しながら何度も「ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」と頭を下げた。

 その後、羽賀が席を外し、しばらく経ってトイレに向かった私が目撃したのは、数台の携帯電話を駆使して女性らしき相手に片っ端から電話をかけている羽賀の姿だった。呆れて席に戻った私は、長良さんに「これから別の取材があります」と口実を作ってその場を後にした。

 それから、羽賀に会うことはなかったが、長良さんの依頼で、梅宮さんから、アンナと羽賀について相談を受けたことがあった。ところが、梅宮さんは長良プロを退社して、他の事務所に移籍。長良さんが「裏切られた」と強いショックを受けていたことを記憶している。

 長良さんは、とにかくメディアのスキャンダル報道に敏感だった。接待漬けにしていたスポーツ紙はそれほどでもなかったが、事務所の目が届かないメディアには神経を尖らせていた。特に、当時、芸能関係者が脅威を抱いていた月刊誌『噂の真相』にはナーバスになっていた。真偽不明ながら業界で噂されているネタが掲載された同誌の名物コーナー「一行情報」には、時にスクープもあって、長良さんも気にしていたのだ。

 音楽関係者やメディアの人間を毎晩のように接待していた長良さんの芸能界人生は、決して順風満帆ではなかった。(続く)


(文=本多 圭)

本多圭

ジャーナリスト。1948年、東京生まれ。明治学院大学中退。TBS臨時労働者雇用闘争を経て、「週刊ポスト」の専属記者。その後フリーになり、芸能、医療分野などを手がける。芸能取材歴は40年以上。著書に『ジャニーズ帝国崩壊』『スキャンダルにまみれた芸能界のトンデモない奴ら』。

最終更新:2025/11/21 13:03