氷川きよし誕生秘話とドンが流した涙……私が見た長良じゅん社長の素顔(2)

“演歌のドン“と呼ばれた長良じゅんさんは、長野県で、興行師だった養父に育てられ、幼い頃から興行を手伝っていたという。そこで大衆芸能の世界に興味を抱き、1958年、当時、雪村いづみ、浜村美智子、弘田三枝子、山田真二、ウィリー沖山、水原弘などが所属していた老舗プロ「木倉音楽事務所」に入社。マネジメントを担当した。
美空ひばりさんの実弟の香山武彦さんと親しかったことから、ひばりさんとは昵懇の仲だった。そのため、「お嬢(ひばりさん)とゴルフに行ったんだ、お嬢が打ったボールがバンカーに入った。お嬢はバンカーにティーを立てて打った。もちろんルール違反だが、それでも誰も注意しなかった」などと、ひばり伝説を語ってくれたこともあった。 その後、1963年に独立すると「長良事務所」を設立。1987年に廣済堂グループの傘下に入ると「廣済堂プロダクション」に改名した。
「歌手では君夕子や黒木憲、アイドル歌手の城みちるや小川順子らがいましたが、長良さんが賞レースのためといって、毎晩のように銀座や六本木で飲み歩くので飲食代が嵩み、経営は苦しかった」(当時を知る芸能関係者)。
1999年に廣済堂グループから離れ、現在の「長良プロダクション」を設立したのは、経営悪化が原因と言われた。 「長良さんは『黒い花びら』で日本レコード大賞を獲得した水原弘さんのマネージャーをしていたこともあって、低音の魅力に取り憑かれていました。それで、黒木憲を売り出したんですが、体調を崩してリタイア。その後、山川豊をデビューさせ、彼にかけたんです」(音楽関係者)。
長良さんは田川寿美もデビューさせているが、筆者はデビュー前の彼女を長良さんから紹介されたことがある。当時はまだ14歳ということもあり、田川の顔は青春のシンボルのニキビだらけだった。筆者が医療関係の取材をしていたため、皮膚科を紹介させるのが長良さんの目的だった。
経営状況はともかく、長良さんの“事前運動”は功を奏し、第23回のレコ大で山川は『函館本線』で新人賞を受賞。さらに、第34回レコ大では、田川が新人賞を獲得したが、同年レコ大の歌謡曲・演歌部門では、大月みやこの『白い海峡』と、山川の『夜桜』が水面下で激しいデッドヒートを繰り広げていた。
大月には、レコ大に強い影響力を持ち、“芸能界のドン“と呼ばれた『バーニングプロダクション』の周防郁雄社長がついていた。
とはいえ、長良さんは興行師の息子で、しかも、芸能界の先輩。周防氏も一目置いていた。それに、事前の話し合いで、長良さんはグランプリは山川の『夜桜』という感触を得ていたという。
レコ大発表の12月31日、長良陣営は六本木の飲食店で結果を待っていた。筆者も取材のため、その場に同席していた。そこに飛び込んできたのは、「大月の『白い海峡』がグランプリ」というニュースだった。その瞬間、長良さんは「裏切られた」と怒りの声を発して、涙を流した。長良さんの涙を見たのは、それが初めてだった。もっとも、年が明けると、長良さんと周防氏の関係は修復していた。芸能界は魑魅魍魎の世界だとつくづく感じる一件であった。
氷川きよし誕生と「黒い交際」
その後、演歌の世界は衰退の一途を辿ったが、2000年2月、『箱根八里の半次郎』で長良プロからデビューしたのが、氷川きよしだった。 低音の歌手に固執していた長良さんが、高音の歌手にチャレンジするのは初めてのことだった。事務所の元マネジャーによれば、「当初、長良さんは乗り気ではなかった」という。
「それでも、売り出しに着手したのは、売り出し資金の目処が立ったからです。しかも、氷川の名付けの親をビートたけしに仕立て、話題作りにも成功。策士でした」(前同)
名付け親の件に関しては、筆者が長良さんに頼まれて、たけしを紹介した。たけしは、80年代の漫才ブームを牽引した「B&B」の島田洋七と、六本木の寿司店「Z」で度々食事をしていたが、その店をよく利用していた長良さんと遭遇するたびに勘定を支払ってもらっていた恩義があった。
ただ、筆者がたけしと共に長良プロに出向くと、すでに芸名は“氷川きよし”と決まっていた。当時、事務所近くにあった氷川神社にあやかって、“氷川”と命名したという。長良さんは、「たけちゃん、名付け親(ということ)になってよ」。その言葉で、話はまとまった。デビュー後、氷川は衰退していた演歌界を復活させ、同時に長良さんも“演歌界のドン”と呼ばれるようになった。
ところで、古き時代の芸能界のマネージャーに“黒い交際”はつきものだったが、ご多分にもれず、長良さんにもそうした噂はあった。
そのことが表面化することはなかったが、1997年、筆者が『ジャニーズ帝国崩壊』(鹿砦社刊)を上梓し、その中で、右翼団体『日本青年社』の幹部E氏とX JAPANのYOSHIKIの関係について言及すると、長良さんから「Eさんが怒っている。うちの事務所に呼ぶから、謝れ」と呼ばれた。
長良プロに出向くと、E氏は「右翼、右翼と書きやがって」と激怒していたが、筆者は「右翼ではなく、民族団体と書けばよかったんですか?」と謝罪しなかった。その後、長良さんから「事務所に菓子折りでも持って行けば済むことだ」と言われたが、そのままにした。長良さんとのエピソードは枚挙にいとまがない。
その長良さんの死から13年。
長良さんが育てた氷川は、事務所を継いだ長男と折り合いが悪く、24年、独立。また、長良さんらが乗っ取り阻止にひと肌脱いだフジテレビは、今は苦しい経営状態が続いている。
ライブドア騒動ーーもはや20年前のことになるが、2005年、ホリエモンこと堀江貴文氏率いる「ライブドア」が仕掛けたフジテレビ買収騒動では、「ライブドア」傘下企業の役員だった放送作家の秋元康氏が、芸能界の重鎮たちを味方につけようと画策したことがあった。
「銀座8丁目のクラブ『S』で長良さん、田辺エージェンシーの田邊昭知氏、イザワオフィスの井澤健さんらが飲んでいること知った秋元氏は、ホリエモンを連れて挨拶に現れた。ところが、ホリエモンはTシャツにジーパン、銀座のクラブのドレスコードに合わない。その姿を見た長良さんが『帰れ!』と激怒したため、重鎮たちを味方につけることに失敗したんです」(音楽関係者)
買収騒動を乗り越えたフジテレビだったが、ご存知の通りの体たらく。「世の中、どうなってんだ!」という長良さんのダミ声が草葉の陰から聞こえてきそうだ。
(文=本多圭/ジャーナリスト)