『べらぼう』最終回、蔦屋重三郎の死と拍子木の真実、そして本居宣長のもののあはれたる『源氏物語』

前回(第48回)の『べらぼう』は、主人公・蔦重(横浜流星さん)の病と死を描く最終回でした。しかし最後まで守りの姿勢には入らず、数多くのトピックを提供してくれる興味深い内容だったと思います。
ちょっと前まで『べらぼう』の登場人物が身分・立ち位置を超えてオールスター的に集結、一橋治済(生田斗真さん/二役)に対する仇討ちで盛り上がっていたのに……という急転直下の落差が凄まじかったですね。
問題の治済は用を足すふりをして逃げ出すも、川を渡る途中で雷に打たれて即死という描かれ方でした。生田斗真さん、最後の最後まで歌舞伎の大見得を思わせる表情での大熱演でしたし、「エレキ(テル)に殺られた!」という描かれ方も、安直に平賀源内(安田顕さん)の“霊”を出したりせず、それでいて源内の存在を色濃く感じさせる場面であり、大変に新鮮でした。
また史実の蔦重の死に様については、お稲荷さまの御使いのキツネ(綾瀬はるかさん)が迎えにくるとかいう話ではなかったようですが、寛政9年(1797年)5月6日の朝、体調不良が続いていた蔦重は今日の昼九つ午の刻、つまり昼12時に「私は死ぬだろう」と予言したそうです。店の者と今後の蔦屋耕書堂について取り決めをして、妻とも最後の別れを済ませたものの、昼12時になっても息を引き取る気配はありませんでした。
蔦重は笑いながら、「自分の人生は終わったのに、命の幕切れを告げる拍子木が鳴らないのはどうしたことか(超訳)」と言ったそうですが、その後、本当に意識が遠のき、夕方に眠るように逝ってしまったとのことです。数えで48、満47歳の太く短い人生でした。
蔦重の最後の言葉から、彼は自分の人生を、まるで芝居のように考えていたことがわかります。まるでシェイクスピアの「世界はすべて一つの舞台、男も女もみな役者(All the world’s a stage, And all the men and women merely players)」という『お気に召すまま』のセリフを思わせる一幕ですが、そういう蔦重の今際の際の逸話を脚本の森下佳子先生は、江戸にいる登場人物(ほぼ)全員が集うフィナーレに仕立て上げたのでした(「オレたちは屁だー!!」とか、また言ってるよ……と思ったのは筆者だけではないでしょうが)。
ちなみに自分の死を予告した出版関係者としてもっとも有名なのは、19世紀ロシアの大作家であるフョードル・ドストエフスキーでしょう。ドストエフスキーが亡くなったのは1881年2月9日で、その日の朝、最愛の妻・アンナに向かって「3時間ずっと考えていたのだが、今日、私は死ぬよ」と宣言。そして、本当に当日夜8時頃に死んでしまいました。
――と少々、話がズレましたが、大河ドラマの最終回といえば、これまでの回想をやってから、老けメイクの主人公がキレイに眠るように息を引き取るケースが多い印象でした。しかし、昨年の「テレビが壊れたかと思った」と一部で囁かれた、『光る君へ』のヒロイン・まひろの顔のアップと長すぎる静止画面に続き、まるで「死ぬ死ぬ詐欺」な蔦重という破天荒なエンディングが二年続いたので、来年の『豊臣兄弟!』の最終回が今から楽しみになってしまいましたね。
正直なところ、豊臣秀長――というか、史実的に表現すると「羽柴秀長」の表記になるのですが、彼はそれまで奔放な兄・秀吉を支えてきたというのに、晩年になってからさまざまな女性関係のやらかしを連発し、ドラマ的にはいちばん盛り上げたい人生最後の戦(小田原征伐)にも病気でリモート参加しかできなかったという脚本家泣かせの人物です。それゆえ、最終回が様々な意味で不安なのですが、はたして『豊臣兄弟!』も筆者の期待に応えてくれる作品となるでしょうか……と、来年のことをいうと鬼が笑うので、今回はこのへんで。
本居宣長と『源氏物語』の本質「もののあはれ」
さて……『べらぼう』最終回で突如、北村一輝さん演じる本居宣長が登場したのには驚かされました(実際の本居は当時66~7歳だったので、外見があれほど若くはなかったとは思います。本居宣長は着道楽の洒落者ではありましたが……)。
本居宣長といえば、江戸時代を代表する古典研究者であり、中学・高校でも『源氏物語』の本質が「もののあはれ」であると提唱した人物としてその名を学んだ方は多いでしょうが、一般的には、それ以上は知られていない人物です。しかし『べらぼう』最終回で描かれた本居宣長は、伊勢・松坂の地に暮らしながら、直球の幕府批判を含む著作を発表中の反骨の大学者でしたから、驚いた方も多いはず。
蔦重が江戸から松坂の本居を訪ねたのは、寛政7年(1795年)3月25日のことでした。本居による「蔦ヤ重三郎来ル(『雅事要案』)」との記録も残されています。
もともと富裕な商家出身で、医師を本業としていた本居が国学(≒国文学、古典文学の研究)を志したのは、賀茂真淵という大学者の教えを受けたからなのです。賀茂真淵には日本全国に門弟がおり、その何人かと蔦重には親交があったので、彼らから紹介を受けての本居邸訪問だったと考えられます。
そもそも蔦重が本居の学問にどの程度の興味があったのかは不明ですが、本居の『玉勝間』などは通読した後に訪問し、カリスマ編集者・プロデューサーとしての彼の視点から有益なアドバイスを行い、日本全国に影響力を広めたがっていた本居の信頼を勝ち取ることに成功したようです。
政権批判をも辞さない本居に対し、蔦重は(本居の主著の一つである)『玉勝間』に「ちと危(あやうき)き事」が含まれているので、出版に際してはカットすべき箇所の指摘なども(松平定信から処分された者として)行っているんですね。
かくして蔦重と蔦屋耕書堂は本居から信頼され、彼の著作の江戸での販売窓口という立場を手に入れたのでした。
本居宣長は学者として、どんな主義・主張を展開していたのでしょうか?
それを語るときの好例となるのが、本居が様々な著書の中でおこなった『源氏物語』に対する言及です。
本居は、江戸時代には「人生哲学が説かれた教訓書」のような扱いになってしまっていた『源氏物語』の本質はそんなものではないと説きました。理性だけでは解き明かせない、人間というあまりに不合理な存在を描いた『源氏物語』を「教訓書」として扱うのは間違いだというわけです。
『源氏物語』の主人公・光源氏はやむにやまれぬ恋心に突き動かされ、父帝(桐壺帝)の最愛の妃にして彼の義母にあたる藤壺を寝取ってしまうのですが、そういう場面をも素直に「あはれ」と思える感性こそが、古来よりの日本人らしさであると本居は主張しています。
光源氏による“NTR(=寝取られ)”の描写は儒教的に見れば、臣下の光源氏が主君である父帝に謀反したというしかない内容ですが、こういう嘆かわしいストーリーに「わざ」としたのは紫式部の工夫で、彼女は主従の絆の重要性を解いた聖人君子なのだ……などと『源氏物語』を教訓書のように、そしてその著者まで神格化して解釈するのは、儒学や仏教など外国から輸入された学問・宗教に影響された誤読にすぎないと本居宣長は批判しました。
また、この手の『源氏物語』の研究は長年、京都の朝廷の公家たち――例えば室町時代の一条兼良や三条西実隆といった高い家柄の大学者たちの手で行われてきた歴史が長いのですが、本居はそういう人々に見られる「一子相伝主義」や、それをありがたがる世間をも批判し、「学問は家柄でするものではない」と一喝しました。
「あの」松平定信(ドラマでは井上祐貴さん)も本居には注目していたようです。しかし本居は、松平が儒教の中でもとりわけ身分秩序に厳しい朱子学以外の学問を禁じる学問弾圧(「寛政異学の禁」)の推進者であることを知っていました。
学問弾圧以前は、むしろ松平を高く評価していた本居ではありますが、それ以降は松平から著書の贈呈を求められても「将軍家の統治のルールは天照大神が定めた“御掟”なのだから、ちゃんと守るように」などと説いた、つまり松平のご機嫌を損ねない著書『玉くしげ』を贈るに留めるなど一定の距離を取りました。
松平が本居宣長の問題の主張を把握していなかったわけがなく(実際、本居を御用学者として登用すべきという声があったのを松平は自己判断で拒絶)、それでも松平が本居を罰しなかったのは、彼が本居に一目置いていたからなのでしょう。逆に松平が蔦重や山東京伝を手酷く罰したのは、彼らの姿勢に「おちょくり」以外の何をも読み取れなかったということでしょうから、興味深いですね。
さて、ドラマは残念ながら最終回を迎えてしまいましたが、次週は今回のコラムで触れられなかった登場人物たち――とりわけ喜多川歌麿(ドラマでは染谷将太さん)の興味深い「その後」についてのお話などをしてみたいと思います!
(文=堀江宏樹)
