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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送談義38

『豊臣兄弟!』忠臣・石川数正はなぜ家康を捨てたのか? 「出奔事件」の史実と茶々が秀吉に嫁いだ“戦国のミステリー”

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『豊臣兄弟!』で徳川家康を演じる松下洸平(写真:Getty Imagesより)

 前回(第38回)の『豊臣兄弟!』は、大和国・郡山に入城した秀長(仲野太賀さん)と家族、そして部下たちがコンサルのように働き、廃業寸前の筆屋を持ち直させ、奈良の大商人たちも郡山に集めることに成功という、ゆる~い内容でした。その横で藤原姓を捨て、新設した豊臣姓を帝に受け入れさせる秀吉(池松壮亮さん)の姿も描かれましたが、これもドラマで描かれたようには容易に進む話ではありませんでした。

神仏も民衆も敵に回した“怪物”秀長

 天正13年(1585年)7月11日、秀吉は前関白・近衛前久(ドラマでは前野朋哉さん)の猶子となり、藤原姓を名乗らせてもらって関白に就任しています。しかしそれから2カ月も経っていない9月9日、秀吉は豊臣姓というまったく新しい姓を朝廷に申請し、天皇から認可をいただいたのでした。それ以降、苗字は羽柴のままで、秀吉は新設された「豊臣氏長者」になったのです。

 さて次回(第39回)は『茶々の本心』と題し、「秀吉(池松壮亮)は数正(迫田孝也)を大坂城に呼び、徳川と真田の和睦を命じる。豊臣家の財力と勢いを目の当たりにした数正は家康(松下洸平)を説得しようとするが、家康は和睦を拒否、対豊臣の戦支度を始める。一方、秀長(仲野太賀)は秀吉に、後継者となる実子をもうけるため新たに妻をめとるよう勧める。相手は織田の血を引く茶々(井上和)しかいないと言われた秀吉は、寧々(浜辺美波)の心中を慮り猛反発するが…」という内容だそうです。

 予想されうる見どころは、「石川数正出奔事件」です。ドラマでは少年時代から、年下の主・徳川家康に尽くしてきた姿が描かれた石川数正(迫田孝也さん)ですが、その数正が突如、家康を裏切って豊臣方に下ったのが天正13年11月半ばのこと。

 しかし徳川方の史料『家忠日記』が伝えるのは、数正が「11月13日に出奔した」という事実だけ。いかなるやりとりが数正と家康、そして秀吉との間にあったのか、そして数正の内心についても一切記録がありません。

『どうする家康』(2023年)にも登場した「石川数正出奔事件」ですが、『どう家』の数正(松重豊さん)は優柔不断な“プリンス”家康(松本潤さん)の頑固な教育係といった役割で描かれました。同作の数正は秀吉の圧倒的な強さを目の当たりにし、「このまま対立を続ければ徳川は滅びる。自分が裏切り者の汚名を着て豊臣に出奔し、徳川の軍事機密をわざと秀吉にさらせば、家康公とて戦を断念せざるをえまい」と判断し、自己犠牲としての出奔を行うという筋書きだったはずです。

 しかし、その筋書きは『豊臣兄弟!』では採用されないでしょう。来週のドラマのあらすじを見る限り、「和睦を拒否、対豊臣の戦支度を始める」家康、そしてその家康を「豊臣など恐るるに足りぬ!」と支持する家臣たちに絶望し、「こんなヤツらと共倒れするのはごめんだ」と豊臣方に行ってしまうという描かれ方ではないかと思われます。そしておそらく、こちらのほうが『どう家』より史実における石川数正の出奔の背景に近い気がするんですね。

 数正出奔のもう一つのトリガーとなったのが、徳川と真田の対立でした(あらすじでは秀吉が「和睦」を命じますが、史実で秀吉が家康に真田攻めの中止を命じるのは翌年8月のこと)。

 この天正13年の「重大事件」についてお話すると、徳川家の庇護下にあった信濃国上田(現在の長野県)の真田家ですが、家康による領土の取り決めに同家当主・真田昌幸が反発。徳川を見限って上杉、ついで秀吉の庇護を求めたので、家康が激怒。同年閏8月に徳川・真田間で「第一次上田合戦」が勃発するのですが、あろうことか徳川軍は数に劣る真田軍に敗退したのです。

 家康にとっては真田攻めの敗退、さらにその2カ月前の7月からは、家康と佐々成政(白洲迅さん)の連携――つまり敵対する成政との連携を疑った秀吉から新たな人質を求められていました。

 しかし家康は10月28日、人質提出を拒否する申し出を秀吉に行っています(『家忠日記』)。史実の石川数正の出奔は、その直後の11月13日です。徳川家と豊臣家の取次役(=外交官)だった数正の出奔は「国交断絶」に等しく、秀吉は翌春の「家康成敗」を決定するのです。

 なお天正12年(1584年)に起きていた秀吉と家康・織田信雄(山脇辰哉さん)の軍事衝突である「小牧・長久手の戦い」の講和において、家康は数正の子も秀吉に人質として差し出していました。数正にとってはそうした「縁」すら頼って、泥船から逃げ出すネズミのような出奔を行ったのかもしれません。

 なお『豊臣兄弟!』に本来なら数いる徳川家臣団の三河武士たちの中で、とくに石川数正がクローズアップされてきた理由は、出奔後の彼の保護者となったのが秀長だったからだと思われます。具体的な史料は存在しないので推測になりますが、秀長は数正が出奔する以前から、水面下で彼とやりとりを重ね、家康に豊臣政権への臣従を受け入れさせるための交渉なども任せるつもりでいたのではないでしょうか。

 また秀吉・秀長は数正に対し、かつて柴田勝家(山口馬木也さん)を裏切った前田利家(大東駿介さん)に、柴田攻めの先鋒を任せたような「忠誠を試す試練」を与えることはありませんでした。豊臣政権は、反抗的な態度の徳川討伐を決定しましたが、その軍事衝突は、数正出奔直後の11月29日、関西地方を中心とする幅広い地域を襲った「天正地震」の影響で延期され、翌年2月には中止となっています。このため、数正の使い道も変わったのでしょうか。

 家康は織田信雄の仲介によって、条件付きながら秀吉への臣従を決めているので、出奔後の数正が関与した形跡はうかがえません。しかし、天正14年1月17日に秀長の和泉の知行地から所領を分け与えられています(『多聞院日記』、河内8万石とする説もあり)。その後、数正は信濃松本へ移りました(8万石説と10万石説がある)。

 つまり彼に目立った働きがないまま、「豊臣兄弟」からの厚遇は続いていたと思われるのですが、ドラマはそれをどう描くのでしょう。『どう家』のように出奔後の数正についてはとくに触れず、ドラマからフェードアウトさせるか、よくて「ナレ死」の扱いかもしれませんが、本作の石川数正は存在感があるキャラですから、注目していきたいと思います。

お市の娘・茶々を側室に迎える秀吉

 さて……次回の第二の見どころとしては、浅井長政(中島歩さん)とお市の方(宮﨑あおいさん)の遺児である3人の娘たち――茶々、初、江(井上和さん、田牧そらさん、西川愛莉さん)のうち、長女・茶々が秀吉の側室になる動きが挙げられます。

 史料からは、茶々は単なる側室というより、秀吉にとっては寧々に続く第二夫人、あるいは次妻の位置を与えられていたと判断されうるのですが、どんな経緯の末に、当時10代後半から20歳前後の茶々(生年不詳)が、30歳以上も年上の秀吉に嫁ぐことになったのかはまったくわからないのでした。もちろん、ドラマのように秀長が彼女を兄に推薦したという形跡もゼロ。こちらも戦国時代のミステリーです。

 なお、秀吉が茶々に執着した理由として、「織田家の血筋を取り込みたい!」などが語られがちですが、残念ながらそれらを実証する史料はなにも残されていません。おまけに両者が結婚した時期さえ不明なのですね。

 秀吉の実子の誕生は、天正4年(1576年)没説がある石松丸(ドラマ未登場)を除くと、長い間ありませんでした。

 しかし茶々=淀殿との間には、天正17年に鶴松が生まれました。秀吉と淀殿の結婚時期もそこから逆算し、前年1588年頃だったのではないか……と考えられています。

 ただの側室であれば、なんとなくお手つきになった末に懐妊も発覚したから、正式な結婚にこぎつけるという流れもありうるでしょう。しかし秀吉にとって、茶々はお市の方――つまり秀吉にとっては旧主・信長(小栗旬さん)の妹の遺児ですから、なしくずし的に対処するのはハードルが高かったと思われます。

 実は生前の彼女が「淀殿」と呼ばれていたと裏付ける一次史料は存在せず、これは江戸時代以降に定着した呼称なのですが、読者の理解しやすさを考え、本連載では秀吉と結婚後の彼女を「淀殿」と呼ぶことにします。

 淀殿が産んだ男児・鶴松ですが天正19年(1591年)8月、惜しくも数え3歳で夭逝し、秀吉の後継者はふたたび不在となりました。これを受けて秀吉は甥の秀次(山田涼介さん)を正式な後継者とみなし、この年の12月、秀次に関白の座を譲りました。前回のドラマで描かれたように、秀吉は豊臣氏なので、藤原氏である近衛家への義理立てはもはや必要なかったというわけです!

 しかし……文禄2年(1593年)には拾(後の豊臣秀頼)が誕生し、新たな火種となりましたが、これはまた別の機会にお話しましょう。

 寧々や数いた側室のほとんどに懐妊の記録すらなかったのに、淀殿だけは短期間の間に2人も授かることができたので、実は茶々が産んだ2人の男子の父親は秀吉ではない……という噂も古くから存在し、現代に至るまで蒸し返されているのは興味深いところですね。「お相手」と目されるのは淀殿が少女時代から顔見知りだった大野治長や、石田三成(松本怜生さん)など。

 ただ、ドラマにおいて淀殿の禁断のロマンスが描かれることはなさそう。また実際に淀殿のような高貴の女性が人目を盗んで、別の男性と密会することは困難ですから、この手のロマンス説は史実的にはほぼ不可能だということはお伝えしておきます。

 天正17年1月末から5月12日まで、秀長は淀殿懐妊に伴う淀城の改修にあたったという記録がありますし、このことからも、公明正大な事実として、豊臣家一同が淀殿の懐妊を喜び、受け入れていたことが伝わるような気がする筆者でした。

巨大なブラックボックス「大和国」

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『エリザベート~神の手を持つ王女~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。最新刊は『幕末維新 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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堀江宏樹
最終更新:2026/10/11 12:00