『豊臣兄弟!』が描かなかった神仏も民衆も敵に回した“怪物”秀長と「門徒を持たない宗派」が招いた興福寺の屈服

前回(第37回)の『豊臣兄弟!』「秀長の国」は、やや薄味な内容で、筆者には物足りなかったです。史実どおりであれば、秀長(仲野太賀さん)の「怪物」ぶりがめきめきと発揮されていたはずですから……。
秀長の乱暴狼藉のすべてを「大河ドラマ」でやる必要はありませんし、主人公の「秀長さん」を「いい人」のまま据え置きたい制作陣の気持ちもわかります。
しかし、私的な手紙などの史料を後世にはほとんど遺さず、その素顔に迫ろうとしても果たせない「羽柴(豊臣)秀長」という人物の一面を知ることができるのが、彼の大和国支配のやり方ではないかと思われるのですね。
史実の秀長が、武力で圧殺したといっても過言ではない大和国(現在の奈良)では、一揆などの武力反乱は起きていません。
これは秀長の支配に民衆が納得していたからではなく、秀長の本拠地がドラマでも描かれたように大和郡山に置かれ、多数の兵たちが大和国を中心に配置されていたので、反対を表明できなかったからなのでした。
しかし大和国でも天正13年(1585年)9月18日、秀長の妻こと「智雲院」――ドラマではまだ出家していないので「慶(ちか)」(吉岡里帆さん)が郡山城に入城した前後の城下の「空気」は最悪でした。
ドラマではとくに何の問題もなく、外出できている「ちか」ですが、史実の智雲院は城の奥深くで息を潜め、一揆が起きないように祈るしかなかったと思われます。
大和国の「空気」が荒れたのは、新領主・秀長だけでなく、その奥方まで引っ越してきたとなれば、その国が武将の「本拠地」となることが確定だからです。それは、現在の望まぬ政策が施行され続ける未来を意味していたので、興福寺の僧による『多聞院日記』にも「近日、一揆が起きるだろう」という不気味な一節が書き込まれるほどでした。
ところがその興福寺など、かつては都の天皇や公卿たちを震え上がらせた「宗教領主」たちは、自分の門徒たち、さらに秀長によって地位と職を奪われた大和国の国人(地侍)たちと連携することができず、一揆は起きぬままに終わったのです。
それでも秀長に真っ向から反論する者たちもいました。大和国の豪商たちです。
次回(第38回)のドラマで取り上げられるようですが、天正13年10月、大和国入りを果たしたわずか1カ月後の秀長は自身のお膝元の大和郡山を発展させるべく、大和国全体の商工業者にそれまで商売していた土地を捨て、郡山に移転しろと命じたお触れを出していました。これには当然ながら、各地の商人たちから猛反発の声があ上がりました。
一部の商人たちは「長いものには巻かれろ」と秀長にお愛想し、秀長は彼らに特権を与える一方、それ以外の商人たちからの反発は根強いものでした。それは商人たちに郡山移転を命じるお触れが2年後にも再び出されているという事実から明らかです。
ここで改めて興味深いのは、商人たちは声を上げられたのに、大和国の頂点にいたはずの興福寺など「宗教領主」が秀長に膝を屈するしかなかった背景です。
ドラマの時間軸より少し前の話になりますが、若き日の徳川家康(ドラマでは松下洸平さん)は三河(現在の愛知県)における「一向宗(=浄土真宗)一揆」にさんざん苦労させられました。「宗教領主」たちが農民を先導し、領主の横暴に立ち向かう構図は当時においても健在だったはずです。
ところが、その手の反乱が秀長支配下の大和国では起きずじまいだったという史実は、興福寺など大和国の「宗教領主」と領民たちとの微妙に「遠い」関係が影響したのではないかと思われます。
というのも、興福寺など大和国を代表する寺院が奉じているのは「法相宗(ほっそうしゅう)」と呼ばれる宗派でした。これは古代日本に仏教が伝来した当時からの伝統を引き継ぐ由緒正しい宗派であると同時に、彼らは一向宗などのように通常の檀家や門徒を持たないのです。それはつまり、寺と門徒を結託させるよい機会である「お葬式」などの宗教行事が、少なくとも寺院関係者の手では行われていなかったことを意味するのです。
仏教史に詳しい方ならピンとくるでしょうが、元来、仏教では「人間、死んだらそれで終わり」と考えられていました。そして法相宗など、伝来当時の仏教のあり方を引き継ぐ「南都六宗」の諸宗派は、お釈迦様自身が『大般涅槃経』において、弟子たちに対し「私の遺体の供養(葬儀)に煩わされるな。それは在家の信者に任せ、お前たちは真理の追求(修行)に専念せよ」と命じた――つまり、出家者=仏教のプロは、葬儀なんかに関わっちゃダメ!という教えを厳密に守り、葬式の催行はもちろん、当時でも別の宗派では行われていた死後の供養なども行いませんでした。
それでは興福寺など法相宗の僧侶たちの仕事は……というと、学問と修業なのです。彼らの主な仕事は人間の心の構造を徹底的に解析する「唯識学」という膨大な教理の研究であり、僧の姿をしていても、東洋哲学科の教授のようなインテリ集団だったのです。
とはいえ、先述のように興福寺など奈良の「宗教領主」たちがずっとクールなインテリだったわけではなく、たとえば(関連団体である)春日大社に伝わる藤原氏の魂を宿したご神木の榊を使った呪詛調伏などは歴史を通じ、盛んに行ってきました。
中世以降、呪詛調伏も陰陽師ではなく、僧侶たちの専門分野となっていたので、大和国の僧たちは何か不都合を感じれば、「春日神木」を輿に乗せて各地に繰り出し、「仏罰・神罰が下るぞ」と脅迫しまくったのです。
ところが、秀長の時代――戦国時代末期ともなれば、本当に恐ろしいのは神仏よりも人間という事実が広く知れ渡り、神仏を笠に着た脅迫は現実味を失ってしまっていました。この点も、秀長の横暴に対し、興福寺など大和国の「宗教領主」たちが蜂起を組織できなかった理由とつながるでしょうね。
さらにこれは冒頭でお話したように筆者が前回のドラマを薄味だと感じてしまった理由ともつながってくるのですが、もし、ドラマが「興福寺VS秀長」を本気で描こうというのなら、反・秀長の先鋒として立ち上がった興福寺の坊官・盤覚(坂口涼太郎さん)に、呪詛調伏目的で唱えさせるのが般若心経というまったく意味の通らないシーンなど撮影しなかったはずなのです。
般若心経は「空(くう)」の重要性を説き、「無駄なコダわりは捨て、楽になりましょう」という時に詠むお経ですから、政敵を呪い殺すための呪文にはなりえません。
せっかく怪演で知られる坂口さんを坊官・盤覚として登場させたのですから、暗黒のお堂の中で春日神木を振り回す盤覚が「キエエエエ」と叫んで失神するとか、もっと大河史上に残る奇怪な一場面を作り得たのに……と、残念でした。
農民、僧侶らに嫌われまくった秀長のビジネスセンス
ここで脱線しますが、筆者は先週、秀長時代に武器を供出させられ、牙を抜かれてしまった談山神社を初訪問することができました。そこで参道を歩いていると、鎌倉幕府をさかんに呪詛していた頃の後醍醐天皇が寄進した石灯籠(元徳3年=1331年の銘あり)がさりげなく置かれていることに驚かされたのです。
調べてみると、明治時代初期の「廃仏毀釈」――かつては渾然一体だった仏教と神道を厳密に分離させようとした宗教運動の結果、妙楽寺が談山神社に名前を変えた際、もとの場所から現在の参道に、後醍醐天皇寄進の摩尼輪塔は移動したようです。
いずれにせよ談山神社は、古代日本における一大クーデターであった「大化の改新」の前に、藤原氏の祖・中臣(藤原)鎌足と、中大兄皇子(後の天智天皇)が談合した場所だといわれています。後醍醐天皇もその逸話を信じ、鎌倉幕府打倒を企てている自身に神仏の力を宿そうと必死だったことがうかがえました。
後醍醐天皇は、自身の手で呪詛調伏を行えるほどにはオカルト分野のスペシャリストでしたから、その彼が篤い信頼を寄せていたのが談山神社であったことを考えると、なぜ秀長時代の談山神社、ひいては興福寺など大和国の「宗教領主」たちが武力にひれ伏すしかなかったのかがよくわかります。
寺社の力は、信徒たちの信仰の力です。とくに百年以上続いた戦国時代と呼ばれる乱世においては、いくら平和を神仏に願ってもそれが聞き届けられないことを知ってしまった大和国の人々の信仰心が目減りしていたのでしょうね。それは大和国の興福寺などの支配的な寺院が、法相宗という門徒を持たぬ「やや」特殊な宗派であった事実とも重なり、紀伊国では可能だった秀長への一揆が大和国では起きぬままで終わった理由にも影響していると思われます。
そもそも史実の羽柴(豊臣)秀長という人物が、神仏に非常に冷淡だったことも無縁ではありません。秀長は居城である大和郡山城の改築にあたり、春日大社の石切場を私的な目的で使用しただけでは足りず、大和国の大寺院の礎石・五輪塔・石地蔵にいたるまで強制徴収しました。それらを城の石垣に転用させたのです。
また紀州国・根来寺の大伝法院の門をはるばる移築させ(民衆だけでなく、僧侶まで人夫として動員)、郡山城の門にしています。この手の“転用”は、様々な武将が各地で行っていましたが、秀長の性格を考えると、ニュートラルな転移だったはずがありません。
さらに秀長は古くから興福寺が主催していた「おん祭」の催行権を、財政支援の名目で奪いとり、田楽、猿楽など各種芸能の披露会のようだった祭礼の趣旨も、自身の武威を見せつけるための軍事パレードに書き換えたのでした。そもそも秀長が寺の所領を約半分に削って財政難に追い込み、祭礼の執行権も手放させているので、悪質というしかない話です。
天正13年11月25日から行われた同祭では、当初、秀長および来場が見越されていた兄・秀吉のために豪華な特等席が用意され、かつてそこに座っていたはずの寺社関係者は、高位の僧侶たちまで楽人席――音楽演奏担当者の居場所という末席に追いやられました。
もともと同祭は寺社関係者と一般人が分け隔てなく座るのが伝統だったようですが、これをイヤがった秀長は自ら棒を振り回し、僧たちの近くに一般人が座ろうとするのを追いやった記録があります。さらに同祭は興福寺内の大乗院の門跡が急死したにもかかわらず、秀長の厳命で中止されずに行われた「いわくつき」の祭礼でした(天野忠幸『大和大納言 豊臣秀長』)。
なおこの直後の27日、仏罰・神罰を思わせる大地震が大和国を襲い、翌年にまでその影響は残りましたが、秀長がとくに気にした記録はありません。
このように大和国の上は神仏から下は庶民にいたるまで、ほとんどそのすべてから嫌われまくっていた史実の秀長ですが、恐ろしいのは彼のビジネスセンスの確かさなのです。「大和大納言」秀長卿による苛烈なテコ入れの結果、少なくとも彼の城下町・大和郡山市の経済は大いに活性化した事実は否定できず、しかもその効果は秀長の死後まで末永く続いているのでした。現在でも失敗することのほうが圧倒的に多い大規模都市再開発ですが、秀長はそれに成功しているのです。
ドラマのように誠意にあふれた「いい人」であるだけでは起こせないような経済革命を現実にしたのが史実の秀長であり、何者も恐れず、嫌われ上等の彼の生き様――天上天下唯我独尊的な豪腕こそが秀長パワーの源だったのでした。
(文=堀江弘樹)