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「そのニュース必要か?」マスゴミが消費し続ける芸能人 PV経済と報道倫理の断絶

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広末涼子(写真:サイゾー)

 4月8日に看護師への傷害の現行犯で逮捕されたことが報じられて以来、マスコミは「広末涼子バブル」の様相を呈しています。

「売り上げはチャンネル登録者数には比例しない」

 新東名高速道路で大型トレーラーへの追突事故を起こした前後の振る舞いが一般に挙動不審と形容され得るものだったこと、薬物の使用を巡ってさまざまな憶測が飛び交ったこと、交通事故と傷害事件では異例ともいわれる家宅捜索が行われたこと、公式サイトで芸能活動の自粛が発表されたこと、そもそも当人が圧倒的な知名度を誇ること……、確かに“話題性”が非常に高い出来事かもしれません。

 しかし事件当初最大の関心事だった違法薬物は薬物検査や家宅捜索で検出/発見されなかったにもかかわらず、報道の勢いは収まりません。特にネットニュースで顕著ですが、ワイドショーでの識者コメントの切り取りや、事件と関係のない過去のエピソード(例えば、昨年の夏に中華料理店で“超ハイテンション姿”が目撃された云々)が掘り起こされ、タイトルに「広末涼子」の文字列が入った記事が量産され続けています。

 芸能人の犯罪やスキャンダルが発覚するたびに、数えきれないほど繰り返されてきたメディアの過剰なプライバシー侵害報道。今回の件にしても、ニュースサイトのコメント欄やSNSには「これほど報道する必要があるのか」「他に取り上げるべき話題があるのではないか」といった趣旨の投稿が散見されますが、なぜメディアはこうした所作を繰り返すのか。その行動原理を、自戒を込めて書いておきたいと思います。

「ニュースの使命」と「実際の報道」の乖離

 身も蓋も無い話ですが、いま最も手っ取り早くページビュー(PV)数を獲得する方法が記事タイトルに「広末涼子」という文字列を記載することだからです。換言すれば、メディアが記事を量産するのは、この人物の話題を報じるのではなく、タイトルに「広末涼子」と書くことが目的であるとすら言える。ニュースの使命を「公益性に寄与すること」と定義するならばもちろん極めて問題のある行為ですが、メディアの収益面においては絶大な効果があります。

 過去に筆者はあるニュースサイトの記者として、今回の「広末涼子バブル」と類似した記事の量産に加担したことがあります。2017年6月23日、歌舞伎俳優・市川海老蔵氏の妻、小林麻央氏が逝去しました。その悲劇性も相まって非常に注目が集まった出来事で、当時の編集長は逝去の一報を聞くと即座に「小林麻央の記事を書きまくれ」と筆者を含む部下たちに命じました。市川海老蔵氏が見舞いの品を買っていた商店にまでコメントを取りにいって、記憶にある限り、筆者だけでその日のうちに3〜4本の記事を書いたはずです。

 メディアとしては「死者を追悼する」という大義名分を掲げることは可能なのでしょう。しかし、いま振り返ればプライバシーの侵害以外の何ものでもなく、「マスゴミ」の姿を体現する恥ずべき過去です。しかし、当時の心理としては「編集長の命令を達成する」という一点に集中しきっており、「ニュースの使命」や「報道の意義」に考えを巡らせる余裕がありませんでした。翌日以降に、冷静さを取り戻して記事を読み返し、自己嫌悪を抱いたのを覚えています。それから間もなく筆者は退社するのですが、この一件でそのニュースサイトは過去最高のPV数を記録しました。

 事実として、芸能人の記事はよく読まれます。というよりも、芸能人の記事以外はあまり読まれない、と言った方が正しいかもしれません。これを象徴する事例としてメディア関係者の間で有名なのが俗に「コソボは独立しなかった問題」と呼ばれる出来事です。

 バルカン半島にあるコソボ共和国は2008年までセルビア内の自治州でした。同年2月、コソボは独立を宣言して世界的な注目を集めます。日本最大のニュースプラットフォーム・Yahoo!ニュースもトップでそれを報じるのですが、アクセス数はあまり伸びず、同日に最も読まれた「R-1グランプリでなだぎ武が二連覇」という記事の50分の1でした。

 つまり、社会的に意義が高いと目される話題であっても、そればかり報じていてはニュースサイトは食えないわけです。ゆえに芸能人の記事を量産して収益を上げなければならない、というジレンマに近い構図があります(この記事が掲載されているサイゾーオンラインも芸能人の名前を記したタイトルの記事が多いのはそのためです)。

 広末涼子容疑者の逮捕が報じられて以来、多くのメディア編集部で筆者が小林麻央氏の病没の際に体験したような光景が繰り広げられていると予想します。広末容疑者の場合は被害者が出ている傷害事件であるため、それを報じることには一定の公益性が認められますが、やはり現在の報道姿勢は過剰であると思えてなりません。

「バランスの良い情報環境」を実現するために

 では、どのような報道が適切なのか。それを考えるため、メディアは伝統的にどのような基準で報道するニュースを選定・制作してきたのかを見てみます。こうした基準は「ニュース・バリュー」と呼ばれ、多くの研究が積み重ねられてきました。慶應義塾大学の山腰修三教授が行った整理が明快であるため、やや長くなりますが以下に引用します。

1 紛争や対立。個人、組織、国家、それぞれのレベルで生じる紛争や対立はニュースになりやすい。世界各地で生じる戦争やテロはその代表例である。

2 地理的に近い場所で生じた出来事。通常は自国で生じた出来事がニュースとして報じられやすい。また、日本を例にとると、アジア諸国、とくに中国、韓国、北朝鮮のニュースが多いのはこのためである。

3 予測できない突発的な出来事。地震、津波、台風などの大災害、航空機事故、そして株価の急速な変動などがこの項目にあたる。

4 継続している出来事。いったん社会の関心を集めた出来事に関する情報は引き続きニュースになりやすい。また、定期的に開催されるイベント、日本では例えば8月15日の「終戦の日」の式典は毎年ニュースとして報じられる。

5 社会的に影響力のある人物。政治、経済、社会、文化といった分野で影響力を持つ、あるいは注目されている人物はニュースになる可能性が高い。すなわち、大統領や首相といった政治的指導者、皇族、さらには芸能人といった「有名人」がそれにあたる。

6 国際的な影響力の強い国家。国際社会で、政治力、軍事力、経済力を持つ国家の動向は注目され、ニュースになりやすい。アメリカ大統領選挙、中国経済の動向などはその典型的な例である。

7 映像的魅力。これはテレビのニュースにあてはまる項目である。新聞などの活字メディアとは違い、テレビの場合、出来事の重要度よりも映像の衝撃度や面白さがニュースの価値を決める場合がある。

8 ニュース項目間のバランス。ニュースは事件や事故など社会にとって問題になる出来事を扱うことが多いので、逆に人々の気持ちを和らげるような出来事を報じて、バランスをとることがある。

出典:『入門 メディア・コミュニケーション』(山腰修三[編著], 慶應義塾大学出版会, 2017)

 こうして見ると、ニュース・バリューはそもそも恣意的に決まっていることがわかります。広末容疑者のケースは⑤に該当し、報じられやすい話題であるのも明らかです。しかし問題は、このニュース・バリューという概念は主に新聞やテレビなどのオールド・メディアを念頭に置いたものであることです。

 新聞やテレビには紙幅や放送時間という制限があります。そうした枠組みを一つの話題で埋め尽くすのは無理があり、結果的にある程度のバランスを保ちながらさまざまなニュースが盛り込まれることになります。しかし、ネットニュースは無限につくれてしまうため、人的資源が許容する限り、同じ題材についての記事が粗製濫造されるのです。

 これはブレーキの壊れた乗り物のようなもので、ネットニュースの収益の大部分が広告に依存しているという構造があり、芸能人の犯罪やスキャンダルに多くの人々が関心を抱く限り、変わることはありません。メディアの振る舞いを正すならば、私たちニュースの受容者一人ひとりが、不適切と思われる報道に関心を払わないという所作を心がけ、「記事の粗製濫造は金にならない」状況をつくる必要があります。これもなかなかに困難な道のりなのですが。

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小神野真弘

ジャーナリスト。日本大学藝術学部、ニューヨーク市立大学ジャーナリズム大学院修了。朝日新聞出版、メイル&ガーディアン紙(南ア)勤務等を経てフリー。貧困や薬物汚染等の社会問題、多文化共生の問題などを中心に取材を行う。著書に「SLUM 世界のスラム街探訪」「アジアの人々が見た太平洋戦争」「ヨハネスブルグ・リポート」(共に彩図社刊)等がある。

X:@zygoku

小神野真弘
最終更新:2025/04/14 18:00