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18歳で覚醒剤に手を出し、歌舞伎町の暴力団に所属……波乱万丈の人生を送ってきた元ヤクザの伝道師が立ち上げた自立準備ホーム「俺ん家」

18歳で覚醒剤に手を出し、歌舞伎町の暴力団に所属……波乱万丈の人生を送ってきた元ヤクザの伝道師が立ち上げた自立準備ホーム「俺ん家」の画像1
(写真:Keigo)

 10代から覚醒剤に手を染め、薬物依存、少年院と2度の服役を経験した過去を持つ、元暴力団員の遊佐学。

 現在は、少年院や刑務所を出た人たちの社会復帰を支援する一般社団法人「希望への道」の代表理事として、支援活動に尽力している。

 かつて“不良”と呼ばれた彼が、どうやって人生を立て直し、他者を支える側へと歩み出したのか? その波乱に満ちた道のりをたどっていく。

都市伝説じゃない…

家族の中で居場所がなかった……孤独感から非行に走る

――フジテレビの『ザ・ノンフィクション』にも出演されるなど、壮絶な半生を歩んできた遊佐さんですが、幼少期はどんな子どもだったのでしょうか?

遊佐学(以下、遊佐) 両親と妹の4人家族でした。両親には愛されていたと思いますが、それを素直に受け取れず、家の中でもいつも孤立感がありました。自分は本当の子どもではなく、捨て子かもしれない……。そう考えるようになり、小学校5年生の頃から万引きや喫煙を始め、非行に走りました。

――小学生でたばこですか? 先生も驚かれたでしょうね。

遊佐 それが当時は2人の不良を主人公にした『ビー・バップ・ハイスクール』(講談社)が流行していて、その影響もあって、体育館の裏でみんなたばこ吸っていました。そうしないと仲間に入れなかったんです。居場所を失うのが怖くて、みんなと同じように悪いことをしていました。そして、中学に上がると周りは「真面目=ダサい」という空気に変わり、さらに非行が加速しました。

――どんなふうに荒れていったのですか?

遊佐 もともと荒れた学校だったのですが、2つ上の先輩と親しかったことで、一緒にシンナーを吸ったり酒を飲んだりするようになります。悪事を重ねるほど、周囲に認められている気がして、そこが自分の居場所のように感じていたんです。

――そうすると、高校へは進学しなかったのですか?

遊佐 進学は希望していたので、何校か受けましたが、全部落ちました。それで中学卒業後すぐ、父が勤めていた建築関係の仕事に就きました。最初はちゃんと働いていましたが、だんだんと行かなくなり、最終的に暴走族に入りました。

――仕事はせずに、暴走族1本で活動するのですね。

遊佐 昼は少し働いて、夜は仲間と遊んでシンナーを吸っていました。トルエン単体や大麻もたまにやりましたが、シンナーが一番多かったです。そして、暴走族は18歳で卒業という流れがあります。その頃、初めて覚醒剤を使いました。

――なぜ、覚醒剤を?

遊佐 子どものころ「覚醒剤やめますか? それとも人間やめますか?」というCMを見て、覚醒剤だけは絶対に手を出さないと決めていたんです。でも、先輩の家に行ったあるとき、「学、1回だけやってみろ」と誘われ、断れませんでした。

――あっさりと使ってしまったのですね。

遊佐 流されやすい性格だったので、「1回だけなら」と軽い気持ちで使いました。1時間後にまた「もう1回どうだ?」と聞かれ、続けてしまいました。2〜3カ月の間に何度か使って、その後、少年院に入りました。

――覚醒剤の使用の罪で少年院に入るのでしょうか?

遊佐 いえ、拉致監禁と傷害です。地元・栃木に他県の暴走族が現れ、騒ぎを起こしたんです。そこで、彼らの車を壊すなど、派手にケンカしました。後日、今度はこちらから隣県に乗り込んで、現地の不良をさらったことで、事件に発展し、少年院送りになりました。

少年院を出て更生したはずが……覚醒剤をやめられない

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(写真:Keigo)

――少年院ではどんな生活を送っていたのでしょう?

遊佐 ちょうど友達2人も先に入っていたので、まるで学校の合宿みたいな感覚でした。つらさはほとんどなく、むしろ気楽でしたね。そして、半年後に出院したときは、友達や後輩たち50人くらいが祝ってくれました。

――すごい歓迎ぶりですね。

遊佐 少年院に入る前、付き合っていた彼女がいて、出てくるまで待ってくれていました。その存在が大きくて、出院のとき、みんなの前で「これからは彼女のためにまじめに生きる」と宣言したんです。「ダサいと言われてもいい。もう悪さはしない」と。

――恋人の存在が、心を入れ替えるきっかけになったんですね。

遊佐 そして、出院後は鳶職として働き始めました。半年は真面目に続けていたんですが、だんだんと退屈に感じてきて……。これまで刺激の多い生活だったので、普通の毎日に物足りなさを感じてしまったんです。次第に仕事に行かなくなり、再び覚醒剤に手を出してしまいました。最初は週に1〜2回だったのが、気づけば毎日のように使っていました。

――せっかく更生したのに、再び薬物へ……。

遊佐 そのときは、「いつでもやめられる」と本気で思っていたんです。薬物の怖さを甘く見ていたし、周りもみんなやっていたから、その環境にどっぷり浸かっていました。やめたくても抜け出せない……。結局、覚醒剤が原因でその彼女とも別れることになりました。そして、24歳までそんな生活を地元で続けてしまいます。

――その間、歌舞伎町でぼったくりバーの店員などもやっていたそうですが、本格的に暴力団員の道に進まれます。

遊佐 とにかく、環境を変えたかった……。そんなとき、歌舞伎町でヤクザをしていた友達に「だったらウチに来いよ」と声をかけられたんです。ヤクザになりたいという気持ちは特になかったですが、薬物まみれの地元から抜け出したくて、歌舞伎町へ行くことにしました。

――ヤクザになる動機としては、珍しいですね。

遊佐 歌舞伎町の空気に惹かれた部分もありました。ただ、一番は「環境を変えたい」という気持ちですね。

――暴力団員としての生活を教えてください。

遊佐 ヤクザになってから半年ほどは薬物を断てていました。ただ、しばらくすると、また手を出すようになってしまいます。地元よりも安く、簡単に手に入る環境だったので、気づけば1年のうち、360日はやっていたと思います。そこから幻聴が現れるようになったんです。

――幻聴……。今でいう「勘ぐり」みたいな状態でしょうか?

遊佐 そうですね。外に出ると、ホストやキャバ嬢の話し声が全部、自分の悪口に聞こえるんです。「また薬物やってる」「どうしようもない」「死ねばいいのに」……。パチンコ屋のBGMすら悪口に聞こえてきて、次第に、ナイフや包丁を持ち歩くようになりました。

――本当に危険な状態になるのですね。

遊佐 幻聴と同じことを、現実で誰かが言ったら、それはもう幻聴じゃない……。そう思って、「言ったヤツを殺してやる!」と本気で考えていました。そんな状態が半年ほど続いていくと、組の中でも信用を失いました。

――薬物に手を出している組員は、やはり嫌われるものですか?

遊佐 当然です。組で薬を扱っているところはほとんどありません。自分がいた組でも、薬をやっている時点で相手にされなくなりました。兄貴分や組長からも見放されて……。そんなとき、同じ組の人間が「一緒に教会へ行かないか」と声をかけてくれたんです。

ヤクザマンション横の教会で十字架を見て心が動かされた

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(写真:Keigo)

――その方はどんな人だったのですか?

遊佐 韓国人のクリスチャンでした。事務所の当番中には聖書を読み、日曜日になると教会に通っていたんです。歌舞伎町のヤクザマンションの隣に大きな教会があり、そこに一緒に行きました。「ここで祈ればいい」と言われたのですが、祈るなんて初めてで正直、戸惑いました。しかし、教会の正面に飾られていた十字架を見ていたら、急に涙が出てきたんです……。自分でも驚きました。どれくらいその場にいたのか覚えていません。気づいたらひとりで帰っていました。

――きっと、心が動かされたのでしょうね。

遊佐 その後、自分ひとりで教会に3〜4回ほど足を運びました。行くたびに、なぜか涙が出るんです。ただ、教会に行く前には薬を使っていたので、結局幻聴が聞こえるようになるんですよ。「学は教会に行っておかしくなった」や「泣いてるなんてバカだ」など……。そんな声が頭の中に響いてくる。「これはさすがにまずい」と思って、1週間だけ薬物を抜いてみようと決めました。薬物を抜けば幻聴もおさまるかもしれないと思ったんです。

――実際に抜いてみて、どうでしたか?

遊佐 体はスッキリしたのですが、幻聴はまったく消えませんでした。そうなると「使っても使わなくても変わらないじゃないか」と思ってしまいます。そして、1週間ぶりに薬物を使った直後、思考が混乱して、気づけば5階の自宅から飛び降りていました。

――えっ……。飛び降りたのは、自殺しようとしたからですか?

遊佐 いえ、「この世に自分ひとりしかいない」という感覚になって、恐怖と孤独に押しつぶされそうだったんです。その気持ちから逃れたくて、飛び降りました。薬物を使っていると、生きる希望なんて持てませんし、死への恐怖もまったくなかったんです。ただ、集中治療室で目が覚めた瞬間、「生きていてよかった」と心の底から思いました。「神に生かされた」と感じたんです。

――本当に生きていてよかったです。怪我の状態はどうだったんですか?

遊佐 右足は粉砕骨折、骨盤も折れて、仙骨の神経まで圧迫されていました。医者からは「一生、松葉づえか車椅子の生活になるかもしれない」と言われたほどです。それでも、家族が毎日病院に通ってくれて……。リハビリを重ねて、1年後に退院しました。退院後は実家に戻りましたが、松葉づえの状態では仕事もできませんでした。そのため、「もう組ではやっていけない」と言われ、ヤクザも破門になりました。

――動けなくなると、ヤクザとしての仕事も難しくなるんですね。

遊佐 そうですね。そこからは、薬物の売人になりました。

――えっ……。

遊佐 「自分さえ使わなければ問題ない」と思っていたのですが、売っているうちに、いつの間にかまた自分でも使うようになって……。

――九死に一生を得たのに、再び薬物に手を出してしまったんですか?

遊佐 生活するにはお金が必要ですよね。ただ、足は動かないし、できることといえば薬物を売るくらいしかなかった。そうして過ごしていたある日、退院から1年半ほど経った頃、警察が逮捕状を持って家に来たんです。

――覚醒剤所持の罪で現行犯逮捕ですか?

遊佐 実は飛び降りて病院に運ばれたときに、尿検査を受けていたようです。しかも、上半身裸で飛び降りていたので、警察も「何かある」と感じていたようです。結局、部屋には家宅捜索も入り、証拠もそろえられていました。

――2年半前の事件で逮捕。警察もタイミングを見ていたのかもしれませんね。

遊佐 そうかもしれません。こうして覚醒剤の使用と所持で1年半服役しました。服役中、妹が面会に来て、「お父さんが脳梗塞で倒れた! お兄ちゃんが迷惑ばかりかけるからだよ」と、泣きながら言われました……。出所したときには、父は右半身が麻痺して車椅子の生活。言葉も話せない状態になっていました。それでも、僕の顔を見た瞬間、父は顔をくしゃくしゃにして泣きながら喜んでくれたんです。

――その姿を見て、どんな思いが湧きましたか?

遊佐 それでもまだ、自分のことしか考えられませんでした。だって、足も動かないから、仕事もできない。だからまた薬物を売るようになって……。そして、出所から1年後、36歳のときに再び覚醒剤の所持で逮捕されました。

――えっ……。

遊佐 そのとき初めて「自分は何をやっているんだろう?」と、真剣に思ったんです。5階から飛び降りて、あのとき「神に生かされた」と感じたのに、結局何も変わっていない……。再び家族に迷惑をかけている、自分自身に絶望しました。「あのとき死んでいたほうがよかったんじゃないか?」とさえ思ったほどです。

元ヤクザの牧師と出会い自立準備ホームを立ち上げ

18歳で覚醒剤に手を出し、歌舞伎町の暴力団に所属……波乱万丈の人生を送ってきた元ヤクザの伝道師が立ち上げた自立準備ホーム「俺ん家」の画像4
(写真:Keigo)

――何度も更生のきっかけがあったように思えますが、薬物依存はそう簡単には抜け出せないものなんですね。

遊佐 やり直したい気持ちはあったんですが、どうすればいいのか分からなかったんです。このままずっと刑務所を出たり入ったりする人生なのかな……。そう思いながら、もがいていました。そして、仙台拘置支所に移されたとき、そこに置かれていた『悪タレ極道いのちやりなおし』(講談社)という本を手に取ったんです。

――著者の中島哲夫氏は指定暴力団「住吉会」元相談役で、現在は牧師として活動されている方です。

遊佐 いざ、本を読んでみると、薬物に溺れて同じ組の仲間を殺そうとした中島さんが、同じ組のクリスチャンの仲間に教会へ連れて行かれ、そこで信仰に出会い、更生して牧師になったという話でした。

――まるで遊佐さん自身の話のようですね。

遊佐 そうなんです。この人も神を信じて人生をやり直せたのなら、自分にもできるかもしれない……。そう思ったんです。もう、わらにもすがる思いでした。それからは刑務所の中で毎日、聖書を読むようになりました。

――神に愛されているから生かされているというような、まさに奇跡のようなタイミングでしたね。

遊佐 そして、38歳で出所し、友人から「川口に元ヤクザの牧師がいる」と押してもらい、進藤龍也さんの教会を紹介されました。それから毎週日曜、栃木から川口まで片道2時間かけて進藤さんの教会に通ったんです。「元ヤクザには、元ヤクザの牧師が一番理解してくれる」と思い、12年前、その教会で洗礼を受けました。

――そこから、一般社団法人「希望への道」を立ち上げられます。具体的にはどんな活動をされているのでしょうか?

遊佐 少年院や刑務所を出たあと、帰る場所がない人たちを受け入れる「自立準備ホーム」を地元・栃木で運営しています。生活相談に乗ったり、役所や病院に同行したりしながら、自立に向けた支援をしています。施設で生活しながら働いてもらい、少しずつお金を貯めて社会復帰してもらうという流れです。

――現在、入居者はどのくらい、いらっしゃるんですか?

遊佐 立ち上げ当初は2人でしたが、9月に新たに2人受け入れたので、今は4人ですね。大体、半年から1年を目安に自立を目指してもらっています。

――みなさんで共同生活をされているんですね。施設はどうやって確保されたんですか?

遊佐 最初は不動産会社を通じて一軒家を借りようとしたんですが、何件も断られて……。そこで、思い切って物件を購入することにしました。2023年6月にクラウドファンディングを立ち上げ、2カ月で327万3000円もの支援をいただいたんです。物件自体は約440万円かかりましたが、差額は自分の貯金を使って補填し、リフォームなどにあてました。昔ながらの広めの民家で、今は拠点として活用しています。

――法人化されていますが、助成金などの支援はあるんですか?

遊佐 自立準備ホームとして認定されているので、ひとりあたり1日5300円の補助金は出ます。ただ、当然ながらそれだけでは足りません。3食の食事や光熱費もありますし、実際の運営はかなり厳しいです。そのため、今は月額500円からの「マンスリーサポーター」に支えてもらったり、自分自身の講演活動の収益でなんとかやりくりしています。

――まさに、身を削っての活動ですね。

遊佐 出所後、4年間グループホームで働いて300〜400万円ほど貯金したんですが、それもすべてこの活動に使っています。でも、それでいいと思っています。これは、自分が生かされた意味であり、使命だと信じているので。

――「希望への道」を立ち上げた今、これからの人生にどんな目標を掲げて歩んでいこうと考えていますか?

遊佐 僕自身が更生するうえで、一番大切だったのは「帰れる場所があること」でした。だからこそ、そういう場所をつくりたかった。犯罪や非行に走らなくても生きていける社会があるということを、若い子たちに伝えていきたいんです。自立準備ホームはまだまだ小さな活動ですが、そこから希望や目標を持って、一緒に人生を歩んでいける存在になれたらと思っています。

見た目は完全に任侠…だけど特技は”編み物”!?

(文=桃沢もちこ、取材・編集=サイゾーオンライン編集部、撮影=Keigo)

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(写真:Keigo)

遊佐学(ゆうさ・まなぶ)
1975年1月22日生まれ。栃木県栃木市出身。一般社団法人「希望への道」代表、新大久保CJKチャーチ伝道師。36歳まで非行と覚醒剤から抜け出せず、2度の服役を経験。独房の中で出会った『悪タレ極道 いのちやりなおし』(講談社)を読み、人生のやり直しを決意。出所後はラーメン屋や依存症回復支援施設でのボランティア、生活支援員の活動を経て、2022年に一般社団法人「希望への道」を設立。

一般社団法人「希望への道」
少年院を出たあと帰る場所がない少年や、事情があって地元に戻らず別の土地でやり直したいと考える少年を受け入れる自立準備ホーム「俺ん家」は、保護観察所から委託を受けて活動している。運営は法人会員からの年会費や、一般の個人・法人からの寄付によって支えられている。寄付は下記ホームページから受け付け中。
https://www.road-to-hope.site/

桃沢もちこ

1993年生まれ、愛知県出身。東京都在住のフリーライター。社会問題からトレンド、著名人のインタビュー、体験レポなど幅広いジャンルで執筆。

桃沢もちこ
最終更新:2025/10/04 18:00