早稲田卒社会人、“暗記学習”の限界に危機感―探究学習が突きつける残酷な現実

「早稲田大学に、文系科目を必死で詰め込んで、ギリギリで受かった僕は、毎日不安なんです」
会うなり、若者はいきなりそう切り出した。
学校の進路調査でまさかの事態
そんなに不安があるのだろうか。彼は早稲田大学を無事に卒業して、有名企業に勤めており、なんの不安もないように思うがーー。それに「指定校推薦」なのだから「ギリギリ」で受かることはないだろう。
「今の高校生は探究で学んでいるんですよね。探究とは、自分が高校時代に学んだ学び方とは全然違っていて、学ぶ芯がしっかりとしているというか、ちゃんと学んでいるなぁと思うんです。僕らは、板書をひたすら写してそのノートを暗記して定期テストで良い点を取って成績を稼いで、『指定校推薦』をゲットするような学び方だったんですよね。暗記中心なんです。今社会に出て、高校で学んだことをほとんど覚えていないんです。暗記ばかりだから全部忘れちゃったんですよ。先生のくだらないジョークや雑談はよく覚えていますが」
言いたいことはわかるが、早稲田大学に入学して「暗記」だけで大学の単位をそろえて卒業できたわけではないだろうに。
ただこうした不安もよく理解できる。社会に出れば課題ばかりである。企業に勤めれば常に課題を抱えた案件をクリアしていかなければならない。プロジェクトで取り組むような大きな課題もあれば、業務上のちょっとした課題や日常の身の回りに潜む小さな課題もある。それらの課題解決には、労力や時間のかけ方、知恵の出し具合などさまざまであるが、いずれもそれなりに難儀だ。それに、自分の都合だけで解決できるものとは限らない。相手がいる課題は、相手の都合も考慮しなければならない。さらに、解決方法はひとつとは限らない。いくつかの解決方法から有効なもの、最善解を見出していかねばならない。自分も相手も納得できる解を求めらることもある。
もし今の高校生が、課題解決の手法として「探究」を学んでいるとしたらどうだろう。彼らが社会に出て同僚になったとき、あっという間に追いつかれ、追い越されるのではないか、そんな不安に苛まれるのも無理はない。
昨今の教育の潮流は「教えるから学ぶへ」「コンテンツからコンピテンシーへ」などであり、教え込まない、知識を無闇に詰め込まないといった方向にある。文部科学省は「主体的、対話的で深い学び」をスローガンに掲げている。そして「自ら考える」「問い」「対話」「探究」が重視される。授業では、一方的な知識の伝達ではなく、対話、ディスカッション、思考の深掘りがなされるようになっている。
知識爆発の時代ゆえに、知識偏重ではなく、その集合体とも言える概念を重視する。そこでは単一の知識や事象のような「具体」と概念のような「抽象」を往還することで、理解を深める。
これは知識に限らない。経験においてもそうだ。
具体的な経験や考えを抽象的・概念的に捉え直すことで、これまで経験したことがない課題に出くわしたときに、抽象的・概念的に置き換えた考えを当てはめることで、解決を試みようとするのだ。つまり、これまでに抽象的に蓄えられた経験や知識を総動員して解を見いだしていく「その場でなんとかする力」も求められるのだ。
こうしたことが、大学入学共通テストでも問われるようになっている。
数学の大問は、従来であれば、1つの問題を解けばそれで終わっていたが、共通テストでは、その考えを用いてほかの問題ではどうかと問われるようになった。こうしたことは数学に限らず、国語など他の教科でも問われるようになっている。ひとつの問いを解く考えを、ほかのケースにも活用する「思考の転移」を求められているのだ。
このような出題には知識を一問一答的に覚えていたのでは対応できない。一方で、「思考の転移」ができれば、いままでに経験したことがない状況に対応ができるようになることを期待できる。共通テストの出題はこのような能力を判定していこうとする出題なのだ。
こうした教育の現状を知った若手社会人が危機感を抱くのは当然だろう。しかし、彼らが対峙する課題のリアルさと量は、高校生の比ではない。日々、具体的な課題解決に取り組むことこそが、求められる能力を養う最良の実践となるはずだ。
(文=後藤健夫/教育ジャーナリスト)
