カズレーサーが賞賛された「北九州市中3殺傷事件」報道批判…マスゴミをどう変えていくべきか?
「マスコミ不信が拡大している」と語られるようになってだいぶ年月が経ちました。
偏向報道をしている、人のプライバシーを侵害している、下世話な話題ばかり取り上げて本当に必要な情報を隠している……。こうしたマスコミ批判はインターネットが普及した20世紀末から目立つようになり、いまや批判が生じないニュースなど、天気予報かスポーツの試合結果くらいではないかと思うほどです(とは言っても、「大谷翔平選手の報道が多過ぎる」という批判が昨年注目を集めましたから、それらも例外ではないのかもしれません)。
2024年12月14日、北九州市で中学3年生の女子と男子が40代の男に殺傷された事件はその理不尽な動機も相まって、約1カ月が経過した現在でも盛んにマスコミに取り上げられています。そしてあたりまえのように、一部の報道機関の取材姿勢や情報の取り扱いを巡って批判の声があがっています。
フジテレビ系列のワイドショー『めざまし8』の2024年12月20日放送回がそのひとつ。同番組は容疑者の逮捕時の状況や近隣住民の証言に加え、犠牲となった中学生の事件当日の行動を紹介しました。遺族が情報提供したという経緯があるものの、番組コメンテーターのカズレーザー氏が、「被害者の行動を報じる必要はないのではないか」という旨の指摘をします。これがニュースサイトやYouTubeチャンネル等で拡散されたことで、同番組の報道内容への批判に火が付きました。
この件を取り扱ったある切り抜き動画では1月10日時点で110万回以上再生され、寄せられたコメント数は約1300件。その多くはカズレーザー氏への賞賛に加え、「犯人の心理を解き明かすならまだしも、被害者の行動を解き明かして何の意味があるんや。」「被害者感情を完全無視し、視聴率(数字)のためだけに強行取材するフジテレビは解体した方が良い!」といった番組への批判となっていました。
マスコミ側としては「犠牲者の行動を明らかにすることで、人々が今後似たような凶行に遭遇するリスクを避けやすくする」といった社会的な意義を一応は掲げることができます。
とはいえ、故人のプライバシーを損なっているのは事実であり、憤りを覚える人がいるのも頷けます(ただし、先述の動画に寄せられたコメントのなかには、一次情報である『めざまし8』を視聴せずに書き込んでいると思われる、事実誤認を含んだものが散見されます。情報が歪曲しがちなまとめ動画や切り抜き記事をもとに批判することの是非は問われるべきですが、ここではひとまず傍におきます)。ましてやこの報道でテレビ局は利益を得ているわけですから、「マスゴミ」と蔑まれるのも無理からぬことでしょう。
しかしここで一歩立ち止まり、マスコミはなぜ、いつ、マスゴミになってしまったのか、という問いを立てると興味深い事実が浮かんできます。
「マスゴミ批判」をアップデートするために
マスゴミはインターネットミームとして広く知られるようになったため、比較的最近の言葉のように感じますが、1950年代にはすでに現在と同じ意味合いで用いられている事例があるのです。さらに言えば、19世紀末の米国では扇情的な新聞報道(イエロージャーナリズム)への批判が巻き起こりましたし、哲学の巨人フリードリヒ・ニーチェは毎朝届く新聞を揶揄して「早朝の嘔吐」と呼んだといいます。大衆(マス)に向けたメディア=マスコミの黎明期からマスコミ批判は繰り返されてきたのです。
いわば、マスコミに不満を募らせ、批判をすることはマスコミと人々の交互作用(インタラクション)において必ず発生するもの。あえて皮肉めいた言い方をすれば、マスコミはその誕生から“マスゴミ”要素をはらんでいたのです。20世紀末、インターネットが普及した頃からマスコミへの批判や不信が目立ち始めたと述べましたが、それは個人が情報発信できるメディア環境が整ったことで、かねてから存在していた不満が見えやすくなっただけだと言えます。
ここで価値を置きたいのは、「人々がマスコミを批判する」という行為が維持されている状態そのものです。
不特定多数の人々に情報を発信する性質上、マスコミはより良い社会を実現することに寄与する責任があります。しかし、「より良い社会」がどんなものか単一の答えがないように、「正しいマスコミの在り方」というのも非常に曖昧なものです。だからこそ、マスコミがその時々に広く共有される規範を逸脱したら批判が起こるのが自然ですし、マスコミはそれに応じて変わり続けていかなければならない。こうした交互作用がない社会が行き着く先のひとつの形が、独裁国家や太平洋戦争末期の日本です。
ただ、このような整理を経て先述の『めざまし8』への批判を眺めると、気がかりなことがあります。「被害者感情を無視している」「横暴なマスコミは解体すべきだ」といった主張には正当性がありますし、正義感に駆られて書き込む人が多数派だと思われます。しかしこうしたマスコミ批判の言説は、少なくともマスゴミという言葉が一般化した20世紀末以来、ほとんど変わっていないのです。
これを踏まえると、新たな問いが生まれます。ここまで筆者は「マスゴミ批判」「番組への批判」などと、意識して「批判」という言葉を使ってきました。そうした用法が一般的であるためです。しかし、インターネットなどに溢れるマスコミへの苦言はそもそも「批判(criticism)」なのでしょうか。
クリティカル・シンキング(批判的思考)という言葉の含意がわかりやすい例ですが、批判とは、物事を精査し、考えを巡らせ、その良し悪しを判定することです。本来、そこには対象の問題点を明らかにし、改善につなげようとする建設的な姿勢が伴っています。現状のマスコミへの苦言を俯瞰すると、悪い点を責め立てること自体が目的化されている感があり、ならば「非難(condemnation)」という語をあてるのが適切であるように思われます。
「マスコミをマスゴミと蔑むのは建設的ではないからやめようぜ」といった上品ぶった主張をしたいわけではありません。もったいない、と思うのです。
マスゴミ非難をするならば、何度も繰り返されてきた言葉を用いても「効き目」は薄いのだから、より斬新で、マスコミ関係者が震え上がるような鋭い批評ができた方がよいはずです。マスコミ批判をするならば、いくら苦言を呈されても変化に乏しいマスコミの構造を把握し、議論が及んでいない問題を明らかにしたり、具体的な改善策を提案できたりした方が有益であるはずです。
本連載の目的は、まさにそこにあります。その時々に注目を集める時事問題やネット炎上の事例を取り上げながら、メディア研究・ジャーナリズム研究や社会学の知見を援用して、もう一歩踏み込んだマスコミ批判/マスゴミ非難をするためのヒントを探る。それを通じて、人々とマスコミのより良い関係性の構築に寄与することを目指していきます。
(文=小神野真弘)