<日本人のおっさん移民 ニューヨーク奮闘記>仕事5つ掛け持ち 少なくとも日本より自由だ

<日本人のおっさん移民 ニューヨーク奮闘記>第1回
サラリーマン生活に見切りをつけて向かった先はニューヨークだった。身を粉にして働いた会社は60歳になった途端に冷たくなり、65歳定年なんて形だけだということを痛感した。転職しようとしても経験など全く考慮されず、社会から「黙って生きていればいいんだよ」と押さえつけられているようだった。もう日本のために働いてやるものか。今に見ていろ。移民として米国で働いて日本を見返してやる。
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ニューヨークは悪魔のような街だ。「カネさえあれば極楽、なければ地獄」という容赦ない現実を地で行くからだ。貧困と暴力が渦を巻き、絶望が目の前に転がっている。それでも人々は「自分はうまくゆく」という幻想を抱きながら、ニューヨークに群がる。
夜が明けるころ、イーストリバーに架かるブルックリンブリッジでマンハッタンに入る。分岐を右にターンしてヘアピンカーブを通り抜け、ハンドルを深く左に切る。アクセルを思った以上に強く踏み込まないと車の流れに遅れてしまうほどの傾斜を登りきると、東に向かって眺望が開ける。
労働者は時間を売るしかカネをもうける手段はない。時はカネなり。ニューヨークでは5つの仕事を掛け持ちしているが、1日は24時間しかなく、仕事の数はこれが限界だ。
つらいのは体力よりも脳の疲労だ。どうすれば、より効率的に気分を変えられるのか。下手に考えるよりも、現場で答えを見つける方が早かった。
晴れでも曇りでも、雨でも雪でも、朝は朝だ。太陽の光は1日たりとも同じではないが、どんな光でも朝は希望の源である。
このルートは、5つのうちの1つの仕事をする際の通勤路だ。住まいのあるブルックリンから、多くの顧客が待つニューヨークの中心部タイムズスクエアに向かう。
いつ、どんなトラブルに巻き込まれてもおかしくないのがニューヨークだ。グーグルマップが弾き出した所要時間をあてにしてはいけない。2倍とは言わないが、1.5倍ぐらいは時間に余裕を見ないと、顧客を待たせて信用を失う。その分、通勤路を走る時間帯も早くなる。
タクシー運転手のライセンスは移民の必需品と言ってもいい。イエローキャブだけでなくニューヨーク市内ではUberなどのライドシェアをやるにもタクシーライセンスが必要だ。所持していれば黒塗りのリムジンだって運転できる。黒塗りならチャーター業務もあるので、もうけの幅が広がる。
元々は日本企業の駐在員だった。ニューヨークにいても日本のために働く立場だった。周囲の仲間も、会社そのものも、視線の先は日本しかなかった。せっかくニューヨークにいるのに、である。
同業他社も他業種を見渡しても、日本人駐在員の大方は同じことをしていた。その体質がどうしてもいやで、駐在員仲間との付き合いを避けるようになった。
日本で「グローバル・スタンダード」という言葉が飛び交ったことがある。金融界や産業界、政界などで常とう句のように使われていた。
金融の世界での経営的な基準について使われていたが、そのうち「日本のビジネスが真に国際化するには、国際基準を取り入れなければならない」というように拡大して解釈された。ところが世界のビジネスの中心地であるニューヨークには「国際基準」など、どこにもなかった。
人種や民族によって生活や考え方は、まったくもってバラバラ。肌の色も違えば、体臭も異なる。ビジネスのやり方もそれぞれで、統一基準など見当たらないし、合わせようともしていない。考えているとしたら、どう共存するかということぐらいだ。
ニューヨークに来れば、すぐに肌で感じられることなのに、日本では「グローバル・スタンダード」が存在しているかのように語られていた。
日本の国際化などというのは、そんな程度のものであったし、現在も状況はほとんど変わらない。
自分はそうなりなくないと思い、米国の「永住権(グリーンカード)」を取得した。ビザは会社など他者の世話になるし、ESTA(*1)では自由に仕事すらできない。「独り立ちできなければ、偉そうなことは言えない」と考えたからだ。
自立はすべての基本である。長らくニューヨークと東京を行き来する生活を続けていたが、定年を機にブルックリンに拠点を移した。家賃を極力、抑えるために住宅の地下のスペースを借りて暮らす。
それが幻想であっても構うことはない。ニューヨークで一旗あげてやろうではないか。米国では仕事の面接をしても年齢を尋ねられることはない。少なくとも、米国は日本より自由だ。
(文=聖生清重)
【*1】ESTA:電子渡航認証システム(Electronic System for Travel Authorization)。ビザ免除プログラム(VWP) を利用して渡米する旅行者の適格性を判断する電子システム。