『ムショぼけ』『インフォーマ』の立ち上げを支え続けてくれた勇気ある男との別れ

肉体の一部を抉り取られたかのような感覚に見舞われる。年を重ねていくということは、もしかすると傷ついていくことなのかもしれない。
4月28日、心から信頼できる友人が他界した。まだ41歳という若さだった。今でも信じることができない。
最年少で小学館の週刊誌の編集長になった友人は、紛れもなく今後の日本のメディア界を背負う逸材と言われていた。胆力もあり、行動力もあり、勇気もあった。そして信用できる男だった。人を裏切るようなことも絶対にしなかった。
石橋貴明に追い討ちした第三者委の感覚
彼がいなければ、『ムショぼけ』の小説も『インフォーマ』のマンガも成立していない。どちらの作品も、映画監督の藤井道人監督と立ち上げたのだが、いつも一番最初にその船に乗ってくれたのは、彼だった。
書き手と編集長という立場を超えて、彼とは公私共にさまざまな付き合いがあった。一緒に何度も食事もしたし、酒だって何度も何度も共にした。
亡くなる4日前も電話で話していた。その日、私は翌日に1周忌を迎える友人の墓参りへと行っていた。
「もう、あれから1年が経つんですね…。本当にあっという間ですよね…」
さまざまな話をしたあと、そう口にした彼との会話が最期になるなんて想像することもできなかった。
それから4日後のことだった。一緒に仕事をしているサイバーセキュリティの社長から電話があった。
「聞かれましたか…?」
その社長との出会いは、8年前になるだろうか。報道番組である『ABEMA prime』内で社長の会社に伺ったのが最初だった。そこから上京するたびに食事をするようになり、社長が信頼できる人間として紹介してくれたのが、出版業界では2番目に若く、小学館では最年少で週刊誌の編集長に昇り詰めた友人だった。
そこから友人関係が始まり、一緒に仕事をしていく中でたくさんの人を紹介してもらい、私も大切な友人たちを彼に紹介して人間関係を共に大きく広げていった。
彼に紹介してもらった人たちとは、今も変わらず大切な友人として、仕事のパートナーとして付き合いをしている。もちろんのことなのだが、私の人間関係は私しか知らない。その中で私の人脈の幅を飛躍させたのは、彼の存在があったからだ。
サイバーセキュリティの社長から友人の訃報を聞かされても、私は耳を疑うことしかできなかった。彼と死がどう考えても結びつかなかったのだ。アメフトで鍛えた身体は誰よりも大きく、エネルギッシュに満ち溢れていた。
それが事実であることを理解しながらも、受け入れることができなかった。残念でならない。私は多分、これまでは「残念」という言葉を使うことがなかったと思う。
それは無意識のうちに、諦めることに対しての抵抗があったからだ。私の人生なんてどこかで諦めてしまえば、今なんてなかったし、諦めたくなる材料はたくさんあった。
25歳のとき物書きを志してペンを握り、十数年。作家になるための支援や導きは誰ひとりからも受けていない。たった1人で誰に読まれることなく、暇さえあれば十数年間、小説を書いてきた。
ただ誰にも読まれることはなかったが、もうその時からこれで絶対にメシを食うと意識していた。そして自力でこじ開けてきた。
周囲に編集者もいなければ、作家もいなかった。どうやれば、作家になれるのか、小説家になれるのかもわからない中で、書いた物を誰にも読んでもらえないまま、それでも書き続けるのは並大抵のことではなかった。
それでも私は書き続けてきた。私に自負があるとすれば、多分そこにあると思う。今のようにSNSが普及してなかった時代に、兵庫県尼崎市という街からたった1人でペンを握りしめ、道を作って物書きになってきたのだ。途中で残念という言葉を使えば、私は物書きにも小説家にもなれなかったと思う。
だけど、彼の突然の訃報に接して、残念以外の言葉が見つからない。残念でならないのだ。
小学館で初めて仕事したとき、自分自身が誇らしかった。何者でもなかった自分が、ドラえもんを生み出した会社で書き手として仕事しているのが誇らしかったのだ。自慢だった。同時によく頑張ったと自分を褒めてやることができた。小学館という場所は、そう感じることのできる場所だった。
本当に申し訳ないことなのだが、千原ジュニアさん司会のあるクイズ番組に出演し、その後にサイバーセキュリティの社長に、女性週刊誌の記者を紹介したいと言われ、恵比寿にある焼肉チャンピオンに向かったとき、私は勝手に女性記者だと思い込んでいた。何だったらサイバーセキュリティの社長の愛人なのだろう、なるほど、東京は闇が深いくらいに思っていた。
だからこそ、待ち合わせの店で、190センチくらいの男性が立ち上がり、こちらに挨拶をしてきた時、腰を抜かしそうなくらい驚かされた。それが彼との初対面だった。
その大きな体躯から、『インフォーマ-闇を生きる獣たち-』に登場する主要キャラクターである、一ノ瀬ワタルさんが演じたキムの別名は、友人の名前からとった。それを知らせたとき、彼はことのほか喜んでくれた。
私には私なりのこだわりがあって、自身の作品の映像化という仕事にかかわる際、まずは私の大切な友人たちを喜ばせ、それをさらなるエネルギーに変えながら、世の中に撃ち放ちたいと考えている。それが思いがけない場所からブーストをかけてくれるきっかけになるのだ。
私が初めてだったと思う。『ムショぼけ』を書いた際、先にドラマ化を藤井道人監督が決めてくれ、まだ小説の出版社が決まっていなかった。当然だ。ドラマのプロットは描き終えていたが、小説はまだ書いていなかったのだ。まず映像化を決めてから、小説を書く。今ではそこまで珍しい手法ではなかったが、最初にそのやり方でメディアミックスをかけたのは、私だった。
その時代は、まずは原作小説が出版されてから、ドラマ化、マンガ化へとメディアミックスされていく流れだった。順番が逆であったとするならば、それは原作小説ではなくノベライズとなる。
そうした初めての試みを友人がさまざまな問題をクリアさせ、小学館で小説『ムショぼけ』の担当となり、出版させてくれたのだ。
『インフォーマ』のマンガ化もそうだった。小説、ドラマと続き、インフォーマもメディアミックスをかけてマンガ化にする際、彼に相談し、マンガワンでの連載が実現したのだ。
「また面白いことを考えていますね!やりましょう!」
『インフォーマ』でも『インフォーマ−闇を生きる獣たち−』の舞台挨拶でも、彼がマイクを握り質問してくれていた。そして、ムショぼけも含めて、グラビアと呼ばれるカラーページでいつも取り上げてくれた。
彼がいなければ、さまざまなことは成立していない。いつも彼は力強く応えてくれていた。そして本当は次も、彼と仕掛けている最中のことがあった。
彼は仕事人だった。彼を知る誰しもが、このまま小学館で出世の階段を駆け上がり続けると、当然のこととして考えていた。
私もその姿を見るのが楽しみだった。残念だし、悔しくてならない。だけど私は書くことでしか、友人に想いを伝えることができない。
私もヤワではない。辛いときも苦しいときも書くことで乗り越えてきた。
これからだってそれは変わらない。いつか友人に胸を張って伝えることができるように、私は誰も真似のできない領域まで、書き続けていきたいと思っている。
「沖田さんは、ある意味、天才ですよ」
出会ったころから、私の書くスピードと物語を生み出す力を見て、彼はそう口にしてくれていた。その言葉に応えていけるように、私は私だけにしかできない道を、これからも切り拓いていきたいと思っている。
彼ならば、「また面白そうなことをやってますね!」と満面の笑みで言ってくれるだろう。
ー ー ー ー ー
本当にお世話になりました。まだ隙を見せると目頭が熱くなってしまいますが、貴方がして下さったことを私は忘れずに、これからもこの世界で戦い続けていきたいと思っています。貴方は私にとって最高の友人でした。ありがとうございました。どうか安らかに。
合掌
(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)
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