フジテレビ「責任転嫁」の闇―ハラスメント騒動で露呈した、組織と個人の決定的な違い

述べるまでもないが、個人と組織が受ける精神的苦痛は全く違う。佐藤二朗さんと橋本愛さんが座長を務めた4月期ドラマ『夫婦別姓刑事』(フジテレビ系)でのハラスメント騒動を巡り、現在、物議を醸している中、そこにフジテレビの声明文がさらに火をつけることになった。
フジはその声明文の中で一連の騒動を巡って、佐藤二朗さんに厳重注意を行ったというのである。
それは本当だろうな。本当に厳重注意を、座長の1人でもある佐藤二朗さんに行ったのだろうな。
それを受けて佐藤二朗さんは、Xに「さすがに、さすがにもうこれ以上は我慢できません。僕は撮影中、何度も「もう我慢の限界だから、このドラマを降板させてほしい。そして全ての事実を公にするべき」と訴えました。もっと早く決断するべきでした。数々の『ほんとうのこと』が、明らかになる日が来ることを、切に祈ります。佐藤二朗」(佐藤さんX投稿引用)と投稿したのだな。
それで今度は佐藤二朗さんを擁護するムーブが生まれ、裏返って橋本愛さんに非難や誹謗中傷が寄せられ、燃え盛っているとでもいうのだな。
この責任はどこに帰結すべきか。論じるまでもない。フジテレビに決まっているではないか。
「厳重注意」という言葉への違和感
良いか。誰が2人をキャスティングして、同ドラマの主演にオファーしたのだ。少なくともそれを承諾したは、フジテレビだろう。降板を申し出ていた佐藤二朗さんに対して、普段は横柄なくせに主演にはすこぶる弱腰なテレビマンが、本当に主演俳優に厳重注意などできたのだろうか。
そして、その厳重注意とは、どのレベルの注意なのだ。そもそも佐藤二朗さんと橋本愛さんのどちらが悪いかという話ではない。
同ドラマのフジのプロデューサーは、現場でトラブルが起きていたことを把握していたはずだ。2人の間の深刻な行き違いが生じていたということに気づいたはずだ。
ならば、何をしていたのだ。主演2人のトラブルだから、当たらず障らずの対応をとっていたとか言わないよな。
私に言わせれば、プロデューサーとしての力量がないのだ。どうせ、テレビ局のプロデューサーヅラで俳優部以外のところでは偉そうにして、主演や主要キャストには何も言えないんだろう。
気持ち良いか。俳優部の事務所から連絡があったり、食事に誘われたり、気持ち良いか。
ただな、それは自分自身を見ているのではない。お前の肩書きを見てるだけなのだ。
優越感に浸るのは構わない。ただな、悲しいかな。そんなヤツが作品を支えたり、作品の中心になったりすることはないのだ。理由を教えてやろうか。誰でもできるからだ。人を見て優越感に浸ったり、俳優部に気を遣ってもらったりなんて、誰でもできるからだ。少なくとも私はそれ以上の仕事ができてしまう。
あるか? テレビ局のプロデューサーごときが、自分で車を運転して送迎をやったり、ロケ地を無料で用意したり、劇用車を揃えたり、お金をかけずにやってきたことがあるか。
せいぜい脚本に文句を言うくらいしかできないだろう。だったら書いてみせてやれ。文句だけならば、誰でも言えるぞ。
テレビ局の肩書きを持って厳重注意して、この結果か。辞めてしまえ。作品に携わる全ての人々が迷惑だから映像に関わること自体、やめてしまえ。
撮影現場を収めるのも、プロデューサーの仕事だ
撮影現場は人と人の集合体で形成されている。そこにはもちろん様々な人間模様があるのは当然だ。
しかし、撮影が終われば、全てをノーサイドにしてみせるのが、プロデューサーの腕の見せ所ではないか。無能なプロデューサーほど、現場で起きたことを自分の器量で飲み込めず、大袈裟にしたがるが、それがなぜか分かるだろうか。それが仕事だからだ。それくらいしか仕事がないからだ。
辻褄もおかしくないか。佐藤二朗さんは、何度も降板を申し出たと言われているのだ。
そんな佐藤さんにフジのプロデューサーは厳重注意など、本当にできたというのだな。
真実はどうなったのか。いくらでも内部からのこぼれ話を私は聞くことができるぞ。それは持ってる人脈が違うからだ。
だがそんなことを聞かなくても、簡単に想像することができるし、コソコソ嗅ぎ回って記事にするのは、書き手としての私の矜持とは反する。
私はただただ苦言を呈しているのである。
では、まず聞いてやろう。主演の2人がそんな関係性になって、なぜ平気で通常運転でプロモーションの番宣を撮れたりするのだ。結果を見てみろ。当事者の一方が体調不良などで番宣をキャンセルしているではないか。
そして結果として、掘り返されているではないか。作品は主演や一部の肩書きを持った人間たちで作られているのではないのだぞ。
肩書きが大好きなよくいる局のプロデューサーなんかにはわからないだろうが、作品に関わってくれた全員がオールアップしたときに笑顔になれなければ、視聴者に対しても失礼なのだ。当然だろう。観てもらうのだから。
「文春に書かれて、また大変だよ〜」
呑気にフジの人間はそんな戯言を言ってないだろうな。軽口を叩いていないだろうな。いいか。組織の苦悩と個人との苦悩では、全く事情が違うと考えたことがあるのか。
今、佐藤二朗さんと橋本愛さんは苦しまれていないか。フジテレビのドラマの出演を受けたばかりに、苦しまれていないか。
佐藤二朗さんと橋本愛さんの間のトラブルが深刻化したとき、現場をバラせないところまで来ていたのだろう。
どちらにも「まあまあまあまあ……」と言ってやり過ごせば、いつものことくらいに着地できると思っていたんだろう。
それについて問いたいのだが、あのフジ騒動であれだけ世間を巻き込み、心配や迷惑までかけておいて、フジは何の教訓も得ていなかったのか。
もう一度言うぞ。「運がわるかったね〜」と社内で軽口を叩き、その軽口に呑気に慰められているフジ関係者なんていないだろうな。
バラすことができなかったのならば、どんなフォローをこの作品に携わる関係者たちにとってみたのだ。それが厳重注意とやらか。その言葉通りならば、そういう事態を把握しておきながら、いつも通り自社の番宣に出演させようとしていたのか。
それで今度は文春が記事にすれば、「あれだけ書かないで!」ってお願いしたのにって、今度は文春のせいか。フジの上層部の思考はお花畑なのか。
フジの編成がどういったドラマを放送するのか決定権利があるように、文春に限らず各媒体において、書く書かない、掲載するしないの判断は、そこの編集部が決めることで、外部の指示に従って決めていれば、それこそ週刊誌ジャーナリズムの完全なる衰退となるのだぞ。
二次被害の恐れ……聞いて呆れることを平気で言ってみせているようだが、では一次被害を生んだのはどこの撮影現場なのだ。それを放送できると平気で判断し、実際に放送していたのはどこの局なのだ。
すべてフジテレビではないのか。作品づくりとは、無能なプロデューサーが、たやすく論じれるほど簡単なことではない。それぞれが情熱を持って、仕事をしているのだ。その上で自己満足で終わってはならないのである。当然ではないか。商業だからだ。
問われるべきは、フジテレビの責任の取り方だ
フジの体質が作品をいわく付きにし、主演を務めた佐藤二朗さんと橋本愛さんを今、苦しめている。
俳優部にオファーする時を考えてみろ。「出てもらえないか」が、「出してやっている」にどこかでいつも変換されたりしていないだろうな。
はっきりと断言できる。フジ騒動があり、そこから月日がまだ経たない内に、こんな問題を起こしているフジテレビに。あんな声明文を平気で出せる局に、ドラマを撮る環境なんかは整っていない。
「最後は責任をとってやる!だからやってみせろ!」
テレビマンとはそうだったのではないのか。だからこそ、これまで多くの名作が生まれてきたのではないのか。
文春が記事にするのは当たり前である。仕事だからだ。そこに対する責任は今回、俳優部ではなく、放送したというのならば、泥を被ってでもフジが取る姿勢を、せめて見せてやるべきではなかったのか。
(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)
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