感性が失われてしまう!? イチローも危惧した野球のデータ化の行く末…手に汗握る試合の楽しみ方

今、野球の見方が静かに、しかし確実に変わりつつある。長らく、野球というスポーツは「数字のスポーツ」として語られてきた。
打率、出塁率、OPS、防御率、奪三振率……。これらの統計データは、選手の価値を測る主要な指標として定着し、多くのファンの関心もそこに集中してきた。
観戦する側もまた、成績を追い、ランキングを見て、記録を比較しながら、数字で野球を“理解する”という文化が築かれていた。また、今年からファンに向けて打球速度、回転数などの詳細なデータを公開することを発表した。
イチローが危惧した野球の「見える化」
ところが近年、その「数字」のあり方がさらに高度化し、新たなステージへと突入している。従来の表面的な成績に加え、「スイングスピード」「バレル率」「打球角度」「フライボール率」「回転数」といった、より繊細で定量的なデータが急速に普及。試合や選手の動きは、もはや“科学”の領域として解析されるようになっている。
メジャーリーグではさらなる発展が進んでおり、NPBでもトラッキングデータなどが導入され、球団単位でデータ分析部門が整備されつつある。野球は今、テクノロジーによって「可視化された競技」となってきているのだ。
もちろん、こうした“高度化された数字”は、野球をより深く理解するための強力な武器になる。投手の投球傾向を把握し、打者の弱点を明らかにし、選手の疲労や怪我の兆候まで読み取る。チーム運営、指導法、育成、スカウティングに至るまで、データなしでは語れない時代となっている。
しかし、果たしてそれだけでいいのだろうか? この疑問を投げかけたのが、元メジャーリーガーのイチロー氏だ。
同氏は2024年に『情熱大陸』(TBS系)のインタビューで「目で見える情報がインプットされて、ある意味では『洗脳』されてしまう。選手のメンタルはデータに反映されないわけだけど、それを一緒くたにしてしまうので、見えないことで大事なことはいっぱいあるのになって。危ないよね、この流れは。怖いのは日本は何年か遅れで追っていくので、それがまた怖いです」と発言し、大きな反響を呼んだ。
また、「(データ野球で)失うものがあるとしたら?」という問いに、「感性ですよ。目で見えてるものしか信じられなくなる。何マイル以上なら何%の割合でヒットが出るってなっていくんですよ。でもそうじゃない技術がある。とにかく見えるものしか評価しないというのは、危険ですね」と語った。
2019年の引退会見の時も、「2001年に僕がアメリカに来たが、2019年現在の野球は全く別の違う野球になりました。まぁ、頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような……。選手、現場にいる人たちはみんな感じていることだと思うんですけど、これがどうやって変化していくのか。次の5年、10年。しばらくはこの流れは止まらないと思うんですけど」と発言している。
イチロー氏のこの言葉は、単なる懐古的な主張ではない。試合中の判断や反応、勝負どころの空気を察知する感性が、どれだけ重要かを訴えるメッセージであり、野球という競技が“人間のスポーツ”であることを再認識させてくれる。
WBCで大谷が魅せたアドリブ
確かに、データの発展によって「正解」は以前より見えやすくなった。例えば「この打者はインハイの直球に強く、外角のスライダーに弱い」「この投手は2周り目の被打率が上がる」などの情報は、簡単に手に入る。
だが、その「見える化」が進んだがゆえに、選手自身が“考えること”を放棄してしまう危険性も生まれている。データが「答え」になってしまうことで、選手は思考や観察を止め、指示通りに動く存在になってしまいかねない。
そして、これは観戦する私たちにも通じる話だ。数字中心の視点が当たり前になると、プレーの背景や文脈、選手の心理といった“数字に表れないもの”に対する想像力が弱まってしまう。
例えば、フルカウントの場面。ピッチャーが何を考え、バッターが何を読み、守備陣がどう備えるか……。その静かな駆け引きの中に、野球の“生きた醍醐味”が詰まっている。
バッターが「この場面はスライダーだ」と直感で読み、完璧なタイミングで打ち返し、スタンドに放り込む。その瞬間に沸き起こる観客の「ゾクッ」とする感覚。あれこそが、野球が“ただの数字”では測れないスポーツである証明ではないか。
どんなに精緻なAIや統計モデルでも、「この一球に込められた覚悟」「この場面の重み」「プレーヤーの内面にある感情」までは再現できない。野球の本質は、“予測不能な人間の瞬間”にこそ宿っているのだ。
よくよく考えればデータ化と、頭を使うことは相反するものではない。言い方を変えれば、自分のチームと相手のチームのデータやマニュアルを念頭に、予期せぬプレーに対応する力が求められていると言えるだろう。
つまり、今の野球選手は頭をなおさら使わなければいけない状況にいるのである。その一例が「世界最高の野球選手」である大谷翔平が、2023年のWBC準々決勝の日本対イタリア戦で見せたプレーだろう。
大谷は相手の守備陣形のシフトを見た上で、味方まで意表をつくセーフティーバントを決め出塁。それが先制点につながった。イタリアは大谷が引っ張り目の打球を打つというデータをもとに、一塁側に寄ったシフトを取っていった。
これは、大谷がメジャーリーグでプレーしているときにもみられるシフトだが、短期決戦であるがゆえに「アドリブ」でセーフティーバントを選択した。データ重視の時代だからこそ、大谷のセーフティーバントのような、アドリブ力の利いた野球脳が活かされたプレーが重要になってくるのではないだろうか。
野球は分析するだけではなく味わえ!
イチロー氏の発言は、その「見えない価値」への警鐘である。選手が考えることをやめ、観客が感じることを忘れてしまったとき、野球は記録には残っても、記憶には残らない。それでは、スポーツとしての魅力が半減してしまう。
そこで、これからの野球をどう楽しむべきか? 著者が考える観戦の鍵は、データと自身の感覚のバランスにある。数字を読み解くリテラシーを持ちつつも、最終的には“感じること”を大切にする。つまり、数字で試合の構造を理解しながら、「この打席には打ちそうな雰囲気がある」「この選手はこの場面で何かを持っている」といった、言語化しにくい雰囲気や緊張感に気づく力を持つこと。それが、現代における“野球を観る力”なのだ。
そのためには、野球を「分析する」だけでなく、「味わう」ことが必要だ。選手の呼吸、打席に入る所作、間合い、キャッチャーの構え、マウンド上の表情……。こうした細部に目を向け、そこに漂う“言葉にならない何か”を感じ取ること。それが、観戦者としての“感性”であり、数字を超えた理解をもたらしてくれる。
なぜ、あの場面でエースがリリーフに回ったのか? なぜこの選手が代打に送られたのか?
その背後には、表には出ない選手の状態、監督の信頼関係、チームの空気、勝負への覚悟といった「物語」がある。そのストーリーを感じ取れるようになれば、野球はますます深く、面白くなる。
AIやデータで“なんでもわかる”ようになった今だからこそ、必要なのは 「人間にしかできない判断力・感性・想像力」だ。つまり、AIがすべてを“わかる”ようになったからこそ、人間は“どう感じ、どう決めるか”が問われる時代になった。
それは、野球における配球ひとつ、ビジネスの意思決定、あるいは人間関係の選択においてもまったく同じだ。“情報”を超えて、“心”があるか。“正解”を超えて、“納得”があるかが重要である。
結局のところ、野球は「人間が演じる舞台」だ。そこには数字では割り切れない“情”や“美意識”がある。だからこそ、私たちは心を動かされ、涙し、歓喜する。数字だけでは味わえない、何とも言えない感動が、確かにそこに存在している。
今、私たちファンにも問われているのだ――。「あなたは、野球をデータで見るか? 感性や感覚で見るか?」
理想はその“どちらも”だ。論理と直感を行き来しながら、選手や試合の奥行きを捉えること。それが、データ全盛の時代にあっても、野球の本質に迫るためのヒントであり、スポーツとしての野球を“もっと面白くする”最大のポイントになっていくだろう。
(文=ゴジキ)