高倉健主演『新幹線大爆破』1975年版が再評価 映画紹介芸人が語る「今の時代には絶対つくれない」という“技術”以外の理由

1975年に公開された同名映画のリブート版で、4月23日に配信開始したNetflix映画『新幹線大爆破』(以下、リブート版)が同サービス内の映画ランキングで4週連続1位を爆走中。その影響で、原作の1975年版にも注目が集まっている。映画レビューサイト「Filmarks」には新規レビューが700件以上投稿され、5月9日からは全国でリバイバル上映が賑わうなど、50年の時を超えた盛り上がりを見せているのだ。
ただし、1975年版は現在でこそ傑作扱いだが、公開当時は東映が5億3000万円もの制作費を投じたにもかかわらず、興行は大失敗だったという。しかし今やレビューにも《以前観たとき以上に面白かった》《50年も前の日本に、こんなに面白いエンタメ映画があったとは…》という声があるように、「今」観ることに価値を見出す人は少なくないようだ。
そんな1975版を「何度見ても泣いてしまう」と言うのは、年間映画鑑賞数300本、豊富な知識と鋭い視点が支持を得る映画紹介人/お笑いコンビ・ジャガモンドの斉藤正伸さん。何がアツいポイントなのか、たっぷり語ってもらった。
高倉健、千葉真一、宇津井健…パニック映画を引っ張る名優の「顔圧」
映画史に光る魅力はやはり、リブート版にも受け継がれた“時速80kmを切ると爆発する”という斬新かつハラハラさせ続けるアイデアだ。
「1964年に運行が始まった(東海道)新幹線は、高度経済成長期の象徴的存在だったんですよね。ただし世界初の高速鉄道で安全走行に懸念もあった。だからこそ『危ない時にはちゃんと止まる』ということが目玉になっていたわけですが、1975年版は、その特徴を逆手にとり『止まったら爆発する』という設定を企画しました。これはものすごい発明。その後映画『スピード』(1994)や、劇場版『名探偵コナン 時計じかけの摩天楼』(1997)でも明らかにオマージュされるほど、秀逸でした」(斉藤さん、以下「」内同)
爆弾が登場すると聞くと、派手な絵面になる印象だが、斉藤さんは「実は爆弾映画って、爆発しない限り“地味”」だと指摘する。しかもリブート版はJR東日本が特別協力したが、1975年版は、新幹線を爆発させるという題材に難色を示した当時の国鉄が一切取り合わなかったため、演出にもかなりの制限がかかったことは想像に難くない。
その“地味”さをカバーするのが、斉藤さん曰く「俳優の“顔圧”(がんあつ)」だ。
「爆弾映画はたくさんありますが、物語を描こうとすると基本的に『爆発させられない』というジレンマが出てきます。爆発したらそこで話が終わるので。そのため、スリルの演出には仕掛けた爆弾以外で説得力を持たせる必要があり、それを引っ張るのが俳優の存在感。高倉健さんはもとより、千葉真一さんのアップや宇津井健さんのアップ……覇気って言うんですかね、威圧感のなかでも“顔の圧”が見る人の感情をつかんで離さない。千葉さんなんて運転席に座っているだけなのに、汗ひとつでものすごい緊迫感を生み出しますし」
さらに特撮界の名手による創意工夫も大きい。
「特撮担当は、ウルトラマンシリーズなど、怪獣のデザインを手がけた彫刻家の成田亨(とおる)さん。新幹線同士がすれ違うシーンや上からのアングルなどはミニチュアの新幹線を作って撮影したそうです。成田さんは『特撮映画と映画の中にある特撮は違う』というポリシーで、どこが特撮か分からないほどリアリティのある映像を入れ込むことを追求した方。まさに映像マジックです」
犯人が主役、熱量の高い登場人物たちが紡ぐ「人間ドラマ」
1975年版は152分と長尺だ。長い理由はズバリ、「人間ドラマ」パートに情熱が注がれたためである。
「犯人を主役に据えながら、彼らには彼らなりの一貫した信念があることが、全編を通して描かれる。悪役側の人生を切り捨てなかったところに、僕はこの映画の美学を感じます。『網走番外地』(1965)や『仁義なき戦い』(1973)などの任侠映画を描いてきた“東映らしさ”でもあると思います」
斉藤さんは、1975年版について「サスペンスのなかに人間臭さやメッセージ性が織り交ぜられ、かつ一人ひとりの登場人物が抱える“事情”を大切にする、奇特な作品」と評する。
「犯人が3人いて、リーダー格の沖田(高倉健)も理由なく暴走したわけではなく、高度経済成長に取り残され、世の中に不平・不満があるという“時代の犠牲者”。根っからの悪人ではなく、『誰も殺すつもりはない』というある種の真っ直ぐさがある。犯人側の心情が掘り下げられ、見ている側にもその背景を考えさせられます」
ドラマの根幹を成す、汗臭いまでの「信念」という太い軸
この映画を支えるキーワードは「信念」といってもいい。乗客を守るため、決断力をもって沖田らと対峙する運転指令長・倉持(宇津井健)が終盤、その「信念」を通すシーンも圧巻の見どころだ。
爆弾の解除に成功した倉持が指令室から出ると、テレビでは沖田に爆弾解除の方法を教えてほしいと呼びかける自分の映像がまだ流されているのを目にする。沖田を捕まえるためという警察の思惑だったが、その映像ではまだ爆弾が仕掛けられていることになっているため、倉持にしてみれば乗客への「裏切り」行為でしかない。
「倉持は愕然として、鉄道マンをその場で辞めると言う。泣けますね。いかに乗客の命を最優先にして生きてきたか、という自分の信念を自分で裏切らない。
しかもその後、テレビを見た沖田がちゃんと空港から電話するんですよね。犯罪を擁護するわけではないんですけど、ズルい人がいない。沖田の元妻と子供が最後に空港にいるシーンなんかも、“犯人も一人の人間なんだ”とぐっとくる。登場人物全員、『やっぱ人間だもんな』と思える部分があって、それが“人間ドラマ”という言葉に集約されるのかなと思います」
ストーリー展開とともに視聴者は沖田に感情移入し、いつしか「このまま逃亡に成功するのでは」という期待感すら抱くようになる。しかし犯人は次々に亡くなり、最後の最後で沖田も撃たれ、海外への高跳びは叶わぬ夢となった。それでも、視聴者の心にはなぜか清々しい風さえ吹く。
「大げさに言うと、“結局世の中ってこうだよな”と納得できる部分もあるのかなという気はします。沖田たちは悪いことをしようとしたわけだし、特に時代的に、社会的弱者の声は届かずに終わってしまうのが現実で歴史だったりするじゃないですか。そして何より、人物が全員それぞれの“信念”を通しているから、見終わった後にある意味での気持ちよさがあるのかもしれないですね」
50年前に比べると、映画製作の技術は格段に進化しただろう。しかし技術だけでは描けない「熱量」が、1975年版にはある。
「戦争や学生運動を経て、本当の暴力の怖さを知っている世代があの頃に作った映画と、今の平和な日本人が作る映画って、映画全体のもつ熱量が違う。1シーン1シーンにかける気迫、圧が、1975年版のパワーになっているんですよね。あの時代にしか撮れないな、と思います」
映画は、その時代の世相を映し出す画でもある。斉藤さんは、「今は人間関係が希薄で、SNSでは顔の見えない相手を徹底的に攻撃する風潮がある。そういう時代だからこそ、人間臭さがあふれる1975年版を見てほしいですね」と話す。
(取材・文=町田シブヤ)
ジャガモンド斉藤のヨケイなお世話
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