『豊臣兄弟!』戦国時代の結婚事情――茶々は側室ではなく次妻だった? そして『どうする家康』と真逆に描かれる「あさひ」の輿入れ

前回(第39回)の『豊臣兄弟!』は、後継者問題がメインテーマでしたね。正室・寧々(浜辺美波さん)との間に実子がいない秀吉(池松壮亮さん)の後継者候補は、甥の秀次(山田涼介さん)か、織田信長の血を引く養子・秀勝(柊木陽太さん)か、といったところでしたが、秀次は調子だけよく、軽薄で、対する秀勝は重病で年も越せない様子。悩む秀吉に、秀長(仲野太賀さん)が「兄者が新しい妻を迎え、男子が生まれたら、その子を我らの手で新たな天下人に育てよう(要旨)」などと持ちかける姿が描かれました。
その新たな妻の最有力候補は秀吉が養女として育ててきた茶々(井上和さん)――今は亡き市(宮﨑あおいさん)と浅井長政(中島歩さん)の長女にして、信長の姪にあたる姫君だと秀長から聞かされると、秀吉は激しい拒絶を示しました。「茶々を娘同然に育ててきた寧々が聞いたらどう思うか!?」などと取り乱しているのを、寧々が横で聞いてしまったのですが、意外にも(?)寧々は協力的でした。
実子がいない自分たち夫婦の子どもは「豊臣の家」であり、そのためならばと、秀吉が茶々を娶ることに納得してくれたのですが、さすがに茶々は実父母の敵・秀吉との結婚を嫌がります。
そこを秀長が説得しようとするのですが、苦戦。あわや射殺されそうになっているところを寧々の「助太刀」ならぬ「助弓」が入り、織田家の弓衆の娘・寧々と茶々が弓道対決することに。的の中心に近いところを射貫いたほうが勝者となり、寧々が勝ったら「茶々は秀吉に嫁ぐ」。茶々が勝ったら「好きにしたらよい」という取り決めで真っ向勝負するのでした。
勝者となったのは的のど真ん中を射貫いた茶々でしたが、「豊臣の家を守るためならなんでもする」という寧々の覚悟に打たれた彼女は、秀吉の妻になると宣言するのでした。
ここらへん、いかにも「戦国の女同士」って感じでアツくてよかったですね(笑)。寧々は後で泣いていましたが……。
余談ですが、ドラマでは関白になった秀吉が「殿下(でんか)」と呼ばれていますが、当時の正式な「殿下」の読み方は「てんが」だったようです。戦国末期に宣教師がまとめた『日葡辞書』にも「tenga」と載っていますので……。
またドラマでは女性関係がかなりクリーンな秀吉ですが、史実の秀吉は、この頃すでに複数の側室を抱えていたはずです。イエズス会の宣教師フロイスによると、その数、大坂城内だけで300人!――なのですが、これは秀吉を「悪魔の手先」と呼び、批判的だったフロイスが悪意で「噂」を増幅した数字にすぎません。
しかし、史実の茶々が秀吉に嫁ぐべきかを迷っている時期に秀吉が親しくしていた側室は3、4人くらいいたのではないか、と思われます。
その可能性が高い女性としては、「松の丸殿」こと京極竜子が挙げられます。ドラマ未登場ですが史実の京極竜子は、夫・武田元明が天正10年(1582年)、「本能寺の変」後に亡くなったので秀吉の庇護を受けているうちに側室になったと伝わり、後年にいたるまでその存在は史料上もうかがえます。京極竜子の母は浅井家出身で、竜子にとって浅井長政は叔父。つまり淀殿の従姉妹でした。
ほかにも前田利家(ドラマでは大東駿介さん)の三女だった「加賀殿」こと摩阿姫も、秀吉とは天正年間後半から男女の仲だったといいますし、元は織田信長の娘で、蒲生氏郷の養女になった後、秀吉が面倒をみた「三の丸殿(氏名不詳)」も、秀吉の「お手つき」になっていた可能性は否定できないと思われます。
ざっくり見ただけでも、すでに多くの女性の姿が(その正確な関係性は置いておくとして)秀吉の周辺には見られたのでした。ドラマとは異なり、茶々の念頭にあったのは寧々の存在より、数多くのライバルがひしめいているという事実だったと思われます。
しかし茶々の背中を押したのが、「側室ではなく次妻として扱う」という秀吉からの提案だったのではないでしょうか。
なお、戦国時代が専門の歴史学者で、本ドラマの考証者でもある黒田基樹先生の説では、松の丸殿こと京極竜子もただの「側室」というより「別妻」の扱いだったとのことですが、おそらくそれを上回るポジションが茶々には約束されていたはずです。
また黒田先生によれば、戦国時代は平安時代と同じく「一夫多妻制」の世であり、戦国武将と「家」の共同経営者であるのが正室。それ以外の妻が別妻。別妻の中にも順位があった。さらにこれらの妻たちに仕える女房衆のうち、お手つきになったのが妾(しょう)という指摘です。
つまり史実の秀長(仲野太賀さん)を例にとると、彼の正妻は慈雲院殿(氏名不詳)ですが、のちに秀長の娘を産んだ記録がある摂取院(氏名不詳)は女房の一人でした。つまりただの妾にすぎませんでしたが、子を産んだ功績で別妻格に引き上げられたとみられます。
それに対し、お市の方の忘れ形見で、信長の姪という高いステイタスを持つ茶々は、当初から特別に「妻」の扱いだったようです。それゆえドラマでも、黒田先生の著作でも秀吉と茶々は「側室になった」ではなく「結婚した」と表現されているのでした。
秀吉の妹・あさひは“人質”だったのか“押し付けられた”のか
「結婚した」といえば、次回は『あさひの輿(こし)入れ』と題する内容となります。
「数正(迫田孝也)が豊臣方へ出奔し、徳川家中は騒然。豊臣との戦は不可能と思われたが、家康(松下洸平)が諦める様子はない。秀長(仲野太賀)ももはや手立てがなく、秀吉(池松壮亮)が挙兵を決めた矢先、大地震が発生する。大坂・浜松ともに大きな被害を受け、両者は和睦の道を探ることに。だが家康は和睦にあたり、秀吉の身内を妻として差し出すよう要求してくる。豊臣家から輿入れできるのはあさひ(倉沢杏菜)だけで…」とあり、「あさひ」こと秀吉・秀長の妹にあたる旭姫の再婚が描かれるようですね。
しかし「家康は和睦にあたり、秀吉の身内を妻として差し出すよう要求」という「あらすじ」に驚く読者も多いのではないでしょうか。
『どうする家康』でも家康が秀吉から妹・旭姫を押しつけられ、困惑という設定が採用されていましたが、『豊臣兄弟!』ではそれと真逆。家康が強く望んだので、旭姫を差し出さざるをえなくなったと描くようです。
この問題についても、先述の黒田先生が興味深い仮説を出しています。
天正13年11月(1586年1月)、大地震が原因で家康討伐を中止した秀吉に対し、家康は織田信雄(山脇辰哉さん)の説得を受け、条件付きの従属を決断しました。やはり家康としても強大な豊臣家と真っ向勝負は本音としては避けたかったのでしょう。
しかしその際に家康が求めた条件が、「旭姫の結婚」と、反抗的な真田昌幸ら「信濃国衆」を自分の与力にする(=部下として組み込む)ことだったというのです。秀吉の義弟ともなれば、豊臣(羽柴)政権のなかで極めて高い政治的地位が約束されるからでした。
根拠とされるのが、同年5月24日付の秀吉の朱印状にある「家康の事、種々縁辺等の儀迄懇望せしめ候」という一文です。「家康があれこれの縁組まで熱心に願い出てきた」という意味に読みうる一節ですが、この朱印状は同月16日の両者の婚儀の後に、秀吉自身が書いたものです。
「相手から願い出された」と書くのは秀吉にとってプライドが保たれる、都合のよい言い方ですが、実際には織田信雄を介した駆け引きのなかで、家康・秀吉双方の政治的思惑が一致した結果が、旭姫の再婚だったのではないかと思われます。ここで気になるのは旭姫がすでに既婚者であり、夫がいたのではないかという問題です。
しかしこの手の「旭姫を家康に嫁がせるため、愛する夫と無理やり離縁させられた」という通説を黒田先生は「江戸時代の創作」と否定しているのです。
実は旭姫の夫についての記述は江戸時代の書物にしか存在せず、そのうち最も古い『武家事紀』(寛文13年/延宝元年、1673年)では、旭姫の夫は副田甚兵衛尉という人物だったが、天正10年(1582年)、戦での失態を理由に旭姫とは離縁させられていたとあり、これを採用すると「すでに二人は夫婦ではなかった」。つまり旭姫は家康との再婚の4年前から独身だったというのです。
しかしいずれにせよ旭姫は、再婚時44歳でした。すでに戦国の女性としては「老女」の域です。当然子どもを望める年齢でもなく、45歳の家康との結婚は形式的なものにすぎませんでした。実際に二人が駿府で共に過ごしたのは、旭姫が母の見舞いで上洛するまでの実質2年余りだったとみられます。家康の寵愛は側室の西郷局などが独占していたので、旭姫は「妻」という名の人質に出されたにすぎず、再婚していても孤独だったはずです。
その後、旭姫は病気になった母の見舞いと称して上洛し(京都に戻り)、その後、駿府に帰った時期もあるようですが、天正18年(1590年)1月14日、秀吉が京都に築いた豪邸・聚楽第で48年の生涯を閉じました。再婚からわずか4年後の話です。
ドラマでは仲がよい夫・勘助(前原瑞樹さん)と引き裂かれるように離縁させられ、家康に嫁がされたと描かれそうな旭姫ですが、そうではなかったとする『武家事紀』の記述に拠ったところで、やはり孤独な後半生を送った女性だったということに変わりはなさそうです。
(文=堀江宏樹)
