中山美穂、54歳で急逝 中学1年でスカウトされ……その波乱に満ちた人生を振り返る
お次は新潮から。
石破茂首相の支持率が30%台から上がってこない。下位低迷のまま来年の参院選まで行くのだろうか?
国会の答弁を聞いていても、野党の質問にまともに答えない、はぐらかす、解釈が間違ったままでもいい募るなど、石破茂らしさが皆無。これでは支持率が上がるわけはない。
その上、総理に選ばれた時もそうだったが、眠そうで、目を開けていられないために、目つきがきわめて悪い。
どこか悪いのではないかと思っていたら、新潮が「睡眠時無呼吸症候群」だと報じている。
これはどんな病気なのか? 国際ハートスリープクリニック筑波医院の末松義弘院長がこう解説している。
「寝ている間に気道が塞がるなどして大きないびきをかき、呼吸が止まり、体内の酸素量が低下する疾患です。
加齢で喉の筋力が弱まるので、男性は30代から、女性は40~50代を境に急に多くなる。運動不足やカロリーの摂りすぎ、アルコールの常飲のような肥満になりやすい生活習慣は、無呼吸症候群につながります。また、首が短い、首が太い、顎が小さいといった特徴のある人も罹りやすいですね」
なるほど。石破は首が短くて太いようだから、あてはまるな。
では、具体的にどのような危険があるのか?
「脳が低酸素状態に晒されるため、朝起きたときに頭痛がする。また、とにかく眠りが浅いので、日中にウトウトして、車の運転中に寝てしまうなんてこともあります。仕事の集中力が落ちるのはもちろんですし、正常な判断を下せないこともあるでしょう」(同)
心筋梗塞や脳梗塞、突然、心停止してしまうこともあるというのだから怖い病気のようだ。
新潮が石破事務所に尋ねると、
「この度のご質問につきましては、回答を控えさせて頂きます」
という回答が来たそうだが、一国の宰相の健康状態は国民に知る権利があるはずだ。石破茂首相は国会ででもいいから、この報道に関して一言あって然るべしではないか。
それにしても石破は、いつ見ても眠そうだな。
ところで、紀州のドン・ファンといわれた野崎幸助(当時77)が2018年に急死したことをめぐり、殺人などの罪に問われた元妻の須藤早貴被告(28)に対する裁判員裁判の判決が出た。
「福島恵子裁判長は、『(野崎さんに)覚醒剤を摂取させて殺害したことについて合理的な疑いが残る』と述べ、無罪(求刑・無期懲役)を言い渡した。(中略)
判決は、須藤被告が18年4月に覚醒剤のようなものを入手するなど、殺害を『疑わせる事情』があったと認めたが、それらの事情から『ただちに、野崎さんに覚醒剤を摂取させたとまで推認できない』と判断。野崎さんが覚醒剤を誤って過剰摂取した可能性もないとは言い切れず、殺害したとするには検察側の立証が不十分だと結論づけた」(朝日新聞Digital12月12日 20時13分更新)
私はここでも以前書いたが、疑わしくは被告人の利益にという原則に照らせば、状況証拠しか提示できなかった検察側の劣勢は初めから明らかだった。
完全無罪ではなく灰色無罪のようには感じるが、この裁判が、裁判員裁判でなければ微妙だったかもしれない。
ともあれ、検察側が「無期懲役」を求刑したのに、判決は「無罪」というのは珍しいのではないか。
検察は上告できるのか。
ところで、秋篠宮悠仁さんの大学がやっと決まった。
だが、東大ではなく筑波大だったことが様々な憶測を呼んでいる。
「悠仁さま(18)筑波大学へ 東大断念に紀子さま(58)の苦渋」と真っ先に報じたのは女性自身(12/17日号)だった。
自身は、11月28日と29日に筑波大学の推薦入試が行われたが、悠仁さんがそれを受けているという情報があり、駆け付けたら複数のテレビ局のクルーが来ていたと報じた。
悠仁さんの東大への推薦入学には、ネット上で反対する署名活動まで起きる騒ぎになった。そのためどこかの時点で、紀子さんも方向転換せざるを得なくなったというのである。
しかし、筑波大も超一流大学で、入るには難関を突破しなければならないが、自身は「最終的にコンセンサスを得るにあたってはキーパーソンの存在も見逃せません」(宮内庁関係者)というのだ。
そのキーパーソンが筑波大学の永田恭介学長だというのである。
「筑附も筑波大も同じく国立大学法人筑波大学が経営しています。永田学長は、悠仁さまが筑附に入学された際、『大変光栄なこと』などと語っています。
筑附は筑波大学への内部進学枠を持っていません。しかし推薦入学であれば、推薦する高校と、推薦を受ける大学のトップが同じわけですから、不合格という事態は避けることができるでしょう。
永田学長は’23年度で任期満了となりましたが、再任し、任期は’27年3月までとなっています」(同)
文春(12/12日号)もこの問題について永田学長を直撃していた。
――悠仁さまが推薦入試を受けた?
「知りませんよ、私は。いたとしても何も分からないし。あなたが受けるときに(学長に連絡が)来ます? 来ないですよ、そんなの」
――皇族の受験にあたっては警備の都合もある。学長に報告があがるのでは。
「あるわけないじゃん。(警備は)あちらが考えること。入試に関してはあくまで一個人ですよ。小学校の先生やっているわけじゃないんで。四万五千人もいるんだよ」
取り付く島もなかったが、同じ日の夜に改めて直撃すると一転してこう答えたという。
「本当に(入試を)受けられているなら、我々のところは生物学は昔から強い。とくに野生動物が強いので、そういう意味で選ばれた可能性はないとは言わないけど。まあ何を研究されるのか分かりませんけどね。とにかく(合否)判定があるとすれば、来週に発表ですか。その時になればわかります。もし入られるとすれば心配ではありますけどね。(キャンパスが)広いんでね」
――万が一入学されたら、寮生活になる?
「いやあ、それは……入ってみないと」
文春によれば、筑波大学の推薦入試は「原則として併願が不可」だそうだから、東大と筑波両方受験というのはできないようである。
そして運命の12月11日。
「宮内庁は11日、秋篠宮家の長男悠仁さまが、茨城県つくば市にある筑波大生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格したと発表した。来年4月に入学し、住まいのある赤坂御用地(東京都港区)から通う予定という。
宮内庁によると、志望する一つのきっかけになったのは昨年6月、現在通っている筑波大付属高校(東京都文京区)の行事で、同大を見学したことだったという。昆虫に関する研究室があることや、キャンパス周辺に豊かな自然があることにひかれたという。
11月28、29日に小論文試験と個人面接を受験。宮内庁によると、今月11日の合格発表を受け、悠仁さまや秋篠宮ご夫妻は安心した様子だったという。
筑波大の永田恭介学長は朝日新聞の取材に、『一般の学生の中に交じって、一緒に学び合って成長していただきたい。なるべく特別扱いをせずに、普通の学生と同じように対応させていただくつもりだ』と話した。(河崎優子、増谷文生)」(朝日新聞Digital 12月12日 5時00分)
文春も、筑波大学の関係者に取材すると次々に「え、東大じゃないの」と驚いたという。
文春は、東大から筑波大への「転身」は、母親の紀子さんの「よおく、考えてみましょうね」という教育方針が生きたのではないかという。
反抗期を迎え母親ともぶつかる時期があったが、高校へ進学し、筑附の授業の一環で筑波大学の空気に触れる機会も多くなり、自ら考え、母親の推す東大ではなく筑波大を選んだというのだ。
私は違う考えを持っている。
東大の推薦入学は一般入試のハードルが高く、以前から、学力的には無理ではないかといわれ、ネット上では反対する署名活動まで起きる騒ぎになってしまった。
そうしたことを勘案した上で、秋篠宮と意思を通じる永田学長のいる筑波大学が第一候補になったのではないか。だが、世間的には、東大は諦めていないと注目を集めておいて、ゲリラ的に筑波大入試に臨む。
それが証拠には、当日、悠仁さんが試験会場に姿を現してメディアは騒然となり、慌てて駆け付けたようである。
だが、東京ドーム55個分といわれる筑波キャンパスは、広大過ぎて警備は大変だろう。
入学してしばらくして、イギリスのオックスフォード大学へ留学するという設計図を秋篠宮夫妻は描いているようだ。
私は東大でなくてよかったと思っている。いまさら東大闘争など持ちだしても誰も知らないだろうが、東大には皇室に反発を持つ学生が、筑波大より多いのではないか。
筑波大の前身は東京教育大である。その昔は東京高等師範学校。多くの教育者を輩出してきた学校である。
東大卒の天皇という肩書はなくなったが、天皇というのはテストの結果がよくてもなれるわけではなく、また、そんな肩書などなくても国民のことを我が事として考えてくれるのであれば、どこを出ていようと関係ない。
悠仁さんにとってはいい選択だったのではないか。
今週の最後の特集は、54歳の若さで突然亡くなってしまった女優で歌手の中山美穂についてである。
12月6日、自宅の浴槽で亡くなっているのが見つかった俳優・歌手の中山美穂の死因について、所属事務所は12月8日に、「死因は入浴中の不慮の事故によるものだった」と発表した。
警視庁は死因を特定するため遺体を詳しく調べた結果、目立った傷はなく、事件性はないと判断したという。
多くのファンを持ち、一度結婚し、離婚して日本に戻ってきたが、その華やかな容姿は衰えず、再び活動を開始し順調に見えたのだが。
中山の子ども時代は貧しかったようだ。
「美穂は売れるまで板橋のアパートに住んでいました。2階建ての古い物件です。そこに父親、母親、妹の忍、弟の5人家族で暮らしていたんです。父親といっても本当の父親ではありません。弟とは父親が違うんです。彼女の本当の父親は、すでに亡くなっていますが、北関東に住んでいたそうです」(中山の古い知人=新潮)
だが、原宿を友人と歩いているところを、山中則男(彼女の所属事務所となる「ビッグアップル」創業者=文春)にスカウトされる。
美穂は中1だった。彼女は山中にこういったという。
「うちの家はすごく苦しい家庭で、ママに家を建ててあげたいんです」
だが、なかなか売れなかったという。
1985年に放送された『毎度お騒がせします』(TBS系)で、下着姿で暴れまわる「Aカップのツッパリ娘」を演じて注目を浴びる。美穂中学3年生。
〈こうして中山はアイドルとしてまたたくまにスターダムにのし上がり、のちに当時の記憶がほとんどないと語るほど多忙をきわめるようになる。人気が出ると、それまでガキ呼ばわりしていた周りの大人たちの態度も一変し、そのことが10代だった彼女の大人への不信に拍車をかけた。
1987年に出演した『ママはアイドル!』では、結婚して相手の連れ子たちと暮らすようになるというアイドルを、役名もそのまま「中山美穂」で演じた。しかし、本人は内容と自分とのギャップに悩みあぐねる。「ミポリン」というニックネームもこのドラマから生まれたが、その後もそう呼ばれることになろうとは当時は思ってもいなかったし、思っていればとても耐えられなかっただろうという。
それでも、同作で演出を務めた吉田秋生は、中山が悩む姿に女優としての感性を見出していたようだ。吉田いわく《今、自分でやっていることに“これでいいんだろうか?”そう思ってないと人は大きくなれない。そういう意味では彼女は常に、違うんじゃないか…違うんじゃないか…違うんじゃないか…って、イヤになるくらい考えていた子だった。弱冠十六歳ですでに。いつも自分に、世界に、疑問を持っていた。そういう悩みを持つ人間というのは演者としてとても魅力的に思えます(『月刊カドカワ』1997年1月号)〉(文春オンライン12/9より)
それからは寝る間もないほど多忙なアイドル生活が始まった。
だが、1993年にはデビュー以来毎年続いていたドラマ出演が途切れてしまう。
〈その年末、雑誌に寄せたエッセイでは、それまでの不満をぶつけるかのように、《演じることなんて大きらい。他人を演じて何が楽しいものかと思う。身を切り裂くようなスケジュールのなかで、精神まで奪われて。(中略)自分のために自分自身として生きているほうがよっぽど大切……》とつづった(『月刊カドカワ』1994年1月号)。
それからまもなくして転機が訪れる。岩井俊二監督の初の劇場長編映画『Love Letter』(1995年)への出演だ。それまでずっと「地味でいいから手応えのあるものをやりたい」と思っていた彼女にとって、同作は《大作という看板も背負ってなくて》(『月刊カドカワ』1997年1月号)、まさに待望していたものであった。劇中、まったくの他人ながら風貌がそっくりな二人の女性を一人二役で演じた中山は、ブルーリボン主演女優賞を受賞するなどその演技が高く評価される。
『Love Letter』での達成感は大きく、以来、中山はローテーションで回っていた仕事をセーブするようになる。1997年には、写真家の荒木経惟と陽子夫人をモデルとした映画『東京日和』で、監督を務めた竹中直人と夫婦役を演じた。竹中からは「何も考えなくていいよ。そのまま、スクリーンの中にいてくれればいいよ」と言われ、出演を決めたという(「キネマ旬報」1997年11月上旬号)。これら作品への出演を通じて、彼女は創作に参加する歓びに目覚めていった〉(同)
そして結婚、パリへ移住するのだ。
〈私生活では2002年、作家でミュージシャンの辻仁成と結婚する。その後、生まれてくる子供には親が芸能人であることなど意識せず、伸び伸びと育ってほしいとの思いから日本を離れ、パリに移住した。長男を出産したのは2004年であった。それからは、辻とともに子育てに専念する。
しかし、子供を儲けて10年後、離婚する。このとき、日本のマスコミから「親権を放棄して子供を捨てた」と書き立てられ、中山は傷ついた。実情は異なり、もともと彼女は、フランスの法律では離婚すると親権は半分になるので、そちらを選ぶつもりでいたが、結局、日本の法律において離婚したため、親権はどちらか一方が持たざるをえず、最終的に辻に譲ったのだ。彼女は雑誌での連載エッセイでそう釈明したうえで、《法律上では子どもに対する権利を失ってしまいましたが、息子との関係の中で親であることは永遠に変わらないと言い聞かせて親権を譲ることにしました。そして、それが離婚を承諾してもらうための条件でした》と明かした(「美ST」2014年10月号)〉(同)
しかし、幼い頃から母親と離れて暮らしていた時期も長かっただけに、親権を譲るのは苦渋の決断だっただろう。
「美ST」(2015年6月号)ではその後の回でも、《いちばんに願うのは息子の幸せです。寂しい思いをさせてしまったことは、毎日胸が痛みます。これから思春期に入っていく彼の微妙な変化も何もかも、すべて受け止めて支えてあげられたら》などとつづり、《今までと同じようにいかなくても、同じではいけないと感じても、挑戦することを諦めないでほしい。自分を大切にすることも未来を生きるために大切なこと。小さなことからでいいから、一つ一つクリアにして、やりたいことを心から楽しむ! 迷いがあっても、何かできることはきっとあると思うんです。あなたはあなたしかいない、と私自身にも言い聞かせながら》と結んでいる。
〈ここ10年、中山は以前にも増して新たな挑戦を続けている。日本に戻り、2015年末に音楽特番『FNS歌謡祭』への出演を皮切りに芸能活動を本格的に再開させると、翌年には東京・下北沢の本多劇場で上演された四人芝居『魔術』で初めて舞台作品に挑んだ。舞台にはその後もたびたび出演し、昨年末から今年初めにかけても、東京・明治座などで上演された『西遊記』で鉄扇公主を演じている。
映像作品でも新たな挑戦が続く。2017年にはドラマ『貴族探偵』で初めてドラマの鍵を握る脇役を演じている。映画では、『蝶の眠り』(2018年)で5年ぶりに主演し、アルツハイマー病で余命宣告をされた女性を熱演した〉(同)
文春によれば、最近は美穂のバックバンドのベーシストで9歳下の永田雄樹が恋人だったという。
人生まだまだこれからだったのに54歳という若さで、美穂は旅立ってしまった。(文中一部敬称略)
(文=元木昌彦)