橘和奈、東日本大震災で失ったもの得たもの

橘和奈の雑誌「サイゾー」連動企画第11弾。
当サイトの旗艦メディアである雑誌「サイゾー2025年2月号」(2024年12月26日発売)のグラビアページに登場してくれた女優でモデルの橘和奈。これを記念して、サイゾーオンラインでは昨年末より橘和奈の3カ月連載を始めている。
今回は、彼女の魅力や素顔に迫るインタビュー連載の最終回となる6回目。間もなく東日本大震災から14年を迎えるということで、福島県南相馬市の出身で自身も被災した経験がある彼女に震災当時のエピソードや故郷への思いなどを語ってもらった。
【橘和奈(たちばな・あいな)】
大手航空会社の元CAで、抜群のビジュアルを武器に2023年4月に「FRIDAY」(講談社)のグラビア企画でデビュー。各誌を彩りながら、舞台作品やYouTubeバラエティへの出演でも話題を集め、さらには故郷・福島の復興プロジェクト「HAMADOORI13」のPRリーダーを務めるなど幅広く活躍している。X@_aina222/Instagram@a_i_n_a_222
東日本大震災の話
――震災当時の大変だったことを教えてください。
橘和奈(以下、橘) 小学6年生のころに被災したのですが、お家が8割くらい壊れてほぼ全壊でした。自分や家族がみんな助かったのはよかったのですが、そこから避難所だった体育館での生活になりました。仮設住宅ができてからも入居が抽選方式だったのでなかなか当たらず、避難所で5ヶ月くらい過ごすことになりました。
――体育館で5ヶ月というのは大変ですね……。
橘 それから仮設住宅に入ることができたのですが、6畳の部屋に家族6人で住むことになりました。家族の仲がいいので、ずっとおしゃべりとかしていたからよかったんですけど、私の家族ってみんなそろって身長が高い(橘は身長170センチ)から、夜に雑魚寝しているとさすがに狭くて。
ですから、広い仮設住宅が空いたらそこに引っ越すということを繰り返していました。そのたびに学校が変わっていたので転校慣れしていって、海外留学もなんとか乗り切りました。環境の変化に強いタイプになったのかもしれませんね。
――被災した当時はどんなことが励みになったのでしょうか?
橘 当時はお店とかもまったく開いていないですし、テレビは『お笑いは不謹慎』というようなムードでバラエティをやらなくなってしまったので、本当に楽しみがなくて。ただ歌番組は少しずつ復活して、それをすごく楽しみにしていました。その中でも、小学生のころから大好きだったAKB48のまゆゆ(渡辺麻友)さんの存在がとても救いになりました。
――まゆゆとAKB48の存在が大きな励みになったんですね。
橘 AKB48は『風は吹いている』という震災復興応援ソングを出してくれたり、復興支援のための『誰かのために』プロジェクト(※2011年5月からAKBグループのメンバーが交代で被災地を毎月訪問し、ミニライブなどを開催した)で私が住んでいた南相馬にもメンバーが来てくれたり、すごく励まされました。
憧れのまゆゆさんも来てくれて、おじいちゃんとおばあちゃんにライブの席をとってもらって、学校が終わったら急いで直行したんですけど、かわいすぎて天使かと思いました! こんなにキラキラしている人が実在するんだなって!
――まゆゆ愛がすごい!
橘 少し前に実家に帰った時に昔のガラケーが出てきたんですけど、充電して中を見てみたらまゆゆさんの画像ばっかりでした。今でもまゆゆさんが大好きで、写真とかたくさんあります。
芸能のお仕事を始めて、最初の宣材写真を撮ってくれたカメラマンさんがまゆゆさんの写真集を撮った方で、まゆゆさんと間接的につながったみたいで、半泣きで喜びました。まゆゆさんをはじめ、AKB48の方々の存在は本当に自分にとって励みになったと思います。
――やっぱり芸能人のパワーは被災した方々の力になるんですね。橘さんも福島県の復興プロジェクト「HAMADOORI13」のPRリーダーを務めています。
橘 『HAMADOORI13』では、福島関連のイベントなどに出演させてもらって、主にPRを担当しています。被災した当時は全国から送っていただいた支援物資で生活していて、服もほとんど流されたり汚れたりしてしまったので、どなたかが送ってくださった制服を着て学校に通っていました。
そのほかにも地元や県外のいろんな方々に助けてもらって、本当に感謝しています。ですから、何か福島のために自分も力になれたらという思いがずっとあります。自分の活動が少しでも誰かの励みになったらうれしいですね。
(文=佐藤勇馬)
【サイゾーオンライン橘和奈連載予告】
#12:03月06日(木)13時公開
「橘和奈サイゾーSPスライドショーvol.6」