『おむすび』第105回 取って付けた『ビッグ・フィッシュ』的なお葬式、娘たちの扱いに米田家の毒を見る

別にいいけど、と思いましたねえ。基本的には、おもしろいことをやろうとしてスベっていること自体にはあんまり文句を言いたくないし、演歌歌手とラモスをツモってきた制作陣は仕事したと思うし、小松原の息子が遺品の中から借用書を見つけるタイミングもまあ、虫の知らせといいますか、ファンタジーとして処理していい範疇でしょう。
なんかこう、すごくシナリオ会議は盛り上がったんでしょうね。「いいですね! 『ビッグ・フィッシュ』だ!」「ティム・バートンの!」なんつってさ、こういうのは見る側だって楽しんだほうがお得ですし、わざわざ矛盾を指摘したって不毛なこともよくわかってる。だって作ってる側が、そもそも物語の筋を通そうとしてないんだもん。
もう今日だけは、あの愛すべき永吉さん(松平健)を笑って見送ろう。そうやってNHKが仕掛けてきたこの「お祭り」に乗るか、乗らないか。これは公共放送ですから、ここで公による選民が行われているともいえるわけです。倫理を問われているし、エンタメやフィクションに各々が何を求めているかを見定める機会でもあると思う。
乗らない側でいたいと思いましたね。一生、こういうのには乗らない側でいたい。
NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』第105回、振り返りましょう。
この期に及んでも「手柄」至上主義
ラモスも演歌歌手の山内さんも、永吉に世話になったと言ってやってきました。
山内さんは「『君には才能がある、自分を信じなさい』って励ましてもろうた」。
ラモスは「それはそれは、たいへんお世話になって」「Muito obrigado(どうもありがとう)」。
シーンの意図としては、故人の生前のお人柄が偲ばれるところです、といったところでしょう。でもこれでは、お人柄はまるで偲ばれない。山内さんともラモスとも、利害でしかつながっていない。
『ビッグ・フィッシュ』をやりたいのであればね、例えばの話です。
山内さんには「歌で悩んどったときに、たまたま糸島のスナックで永吉さんに会うたんです。ただ純粋に心を込めて、楽しそうに歌う永吉さんの姿を見て、音楽の楽しさ、歌で心を伝える素晴らしさを思い出したんです」と言ってほしかった。
ラモスには「私にループシュートを教えたって? ハハハ、永吉さんらしいな。あの人、野球の話ばかりでサッカーのことなんてひとつも知りませんでしたよ。でも、楽しい人でね」「Eu te amo(あなたが大好きですよ)」と言ってほしかった。
ただ好き勝手に生きているだけで、誰かの救いになる人であってほしかった。
ここね、人に何かしてやったこと、誰かの役に立ったことにしか価値を見出せない『おむすび』というドラマの本性が露見したと感じたんです。
「米田家の呪い」「人助け」といえば聞こえはいいですが、これは人を「役に立つか/役立たずか」でしか評価できないという価値観がドラマの根幹にあるからこそ生まれたシーンだと思うんですよ。
主人公・米田結(橋本環奈)という人物の造形も、この価値観に沿って作られているということなんでしょう。結さんが人を助け、手柄を立てることを「何より素晴らしく価値がある」としている。そして画面の向こうから視聴者に対して「手柄を立てたのだから私を愛してほしい」と叫んでいる。成果でしか人の魅力を表現できないと思い込んでいる。そういう価値観でドラマが作られている。
それに「乗らない側」でいたいと思うんです。成果じゃないところで、感謝されるかされないかじゃない部分で、人を愛せる側でいたいと思うんです。
今日のお葬式のシーンを見ていて思い出したのが第42回、専門学校時代の結さんが星河電器のピッチャーだった翔也(佐野勇斗)に自作の「社食を組み合わせた献立」をプレゼントした場面です。サッチンに修正される前の初期バージョンね。
あのとき、翔也はその献立を受け取って、内容をよく確認してから「助かる」と言ったんですよね。それについて、このレビューでは以下のように書いています。
「好きな人がここまでやってくれたら、まず『ありがとう』『やっぱり大好き』って気持ちが先にくるものじゃないのかね。目の前にその好きな人がいるんだぜ、思わず抱きしめたくなるもんじゃないのかね」
人が人に寄せる愛情というものがまったく画面から感じられない、その献立の内容に価値があるかどうかしか語ろうとしない、すごく冷たくて恐ろしいシーンだった。
加えて翔也の話でいえば、後にプロになって大活躍しているラモスや山内さんにそこまでの金言を与えられたなら、あの「福西のヨン様」にも何かしてやれなかったもんかね、とも思うよね。高校時代はめっちゃ期待してたし、「ホークスに絶対来い!」ってテンションだったよね。ラモスや山内さんを業界トップクラスに伸し上げるだけの力を持った人だったんでしょ、永吉さん。だったら何か、彼も助けてやってほしかったよ。無残だったぜ、野球選手としてのヨンの最後は。
ちなみに「Eu te amo」はマルシアのアルバムタイトルです。まーちゃんごめんね。
「役立たず」の象徴としての妹2人
愛子みたいな人だったら、きっと聖人の妹2人とも仲良くなってたと思うんだよな。実の父親を亡くした2人の妹たちに、真っ先に「このたびはご愁傷さまです」と声をかけに行けるのは、愛子のはずなんです。家族愛を描こうというドラマで、故人の娘2人がまったく無視されるというのも、すごく怖いと感じました。
通夜が終わり、そこに残ったのは聖人一家だけ。最前列に座っていた中年女性2人がおそらく妹なのでしょうけれども、彼女たちには家族もいないし、早々に画面から追い出されている。なぜなら、この2人の妹はストーリー展開の役に立たないからです。『おむすび』の価値観でいえば、視聴者に何の成果も与えないから必要ないということです。
かろうじて、ばあば(宮崎美子)が、永吉が役に立ったか立たないか、助けられたかどうかじゃなく「会いたい、笑い声が聞きたい」と語ってくれたことが救いだとは思ったけど、その思いはあなたの娘にも聞かせてやってよ。遺影の永吉は将来の聖人であり、ばあばは愛子であり、あの妹2人はアユと結さんですよ。誰の葬式から誰を追い出したのか、もう一度よく考えてほしい。
小松原の息子が金を返しに来る、ひみこが海外から駆け付けるという配置にとって2人の妹がノイズだったとしても、せめてもうちょっと丁重に扱ってやれないもんかね。こういうのって、ドラマを作る上で配慮すべき最低限の良心の部分だと思うんだよな。父を亡くした娘2人をフル無視して「ハートウォーミングです、笑って送り出しましょう」は、さすがに通らないよ。きついって。
なんかさー、見終わった感じとしては、これはこれでファンタジーだし別にいいじゃん! ってわりと肯定的な気持ちで考え始めたんですけど、思いのほか嫌な本性を見ちゃったな。いやー毒がすぎるよ、『おむすび』ってドラマは本当に。
(文=どらまっ子AKIちゃん)