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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『べらぼう』放送談義31

『べらぼう』将軍・家治を毒殺したのは一橋か意次か…史実に残された意次の“謎めいた行動”

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『べらぼう』で知保の方を演じる高梨臨(写真:Getty Imagesより)
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 前回(第31回)の『べらぼう』のクライマックスは10代将軍・徳川家治公(眞島秀和さん)の「大きな死」と、それと対比される形で描かれた新之助(井之脇海さん)の妻・「ふく」(小野花梨さん)の「小さな死」でした。どちらも放送開始時から毎回のように登場し続け、大きな存在感をもっていたキャラクターなので退場には寂しいものがあります。

“攻める大河”

 家治役の眞島秀和さんの迫真の演技には惹きつけられましたね。おそらく麻痺性の毒に侵され、自由に動くことができないにもかかわらず、最後の力を振り絞って「黒幕」である一橋治済(生田斗真さん)に「天が見ておる」と詰め寄ったシーンは忘れがたいものになりそうです。

 ドラマでは最近、体調を崩しがちな家治のために、側室・知保の方(高梨臨さん)から「なにか滋養のあるものを差し上げたい」と相談された奥女中・大崎(映美くららさん)が「醍醐(だいご)」を提案していました。しかし大崎は一橋治済と裏で通じており、その醍醐には毒が仕込まれていたという描かれ方でした。

 筆者が思わず「上手いなぁ」と声に出して唸ったのは、毒を口にしてしまった家治が田沼意次(渡辺謙さん)を秘密裏に呼び出し、「毒抜きの上手い医者を見つけてくれ」と依頼したあたりの描き方です。

 史実では、天明6年(1786年)の春ごろから、それまでは健康そのものだった家治が弱りはじめ、脚もひどくむくみだしたので、奥医師たちは「脚気」だと診断しています。しかし彼らの薬は効きませんでした。

 脚気とはビタミンB1(チアミン)不足が原因の病気です。

 昔から日本人の食生活の中心は米で、江戸時代になっても将軍や大名などの上流階級や、大商人などの富裕層も、現代人の目には「米ばかり食べている」と映る食生活を続けていました。

 問題は江戸時代に精米技術が進歩したこと。そして玄米からビタミンB1など栄養豊富な胚芽と糠(ぬか)を取り除いた白米を主食とするようになったことです。

 脚気は食事に気をつければ、回復が期待できる病気でしたが、明治末になるまでは根本的な治療法が発見されておらず、日本人を悩ませ続けたのです。

 家治が、これまで休んだことがなかった朝の総触(そうぶれ)――大奥における朝礼儀式を欠席したのが同年8月15日。彼の死の10日ほど前の話です。当初は「夏風邪をこじらせた」といって床についたのですが、立ち上がることができなくなるほど症状は急速に悪化しました。

 このとき、史実でも田沼意次が若林敬順(わかばやしけいじゅん)と日向陶庵(ひゅうがとうあん)という「なぜか」町医者を連れてきて、家治の治療チームのトップに任命したり、その3日後に日向だけが江戸城を出ていったり、不審な動きがありました。

 この謎めいた田沼の行動の原因を説明する史料は残されておらず、歴史の謎なのですが、それをドラマでは、「万全のお毒見体制の裏をかかれ、将軍・家治に毒が盛られた」「毒が入っていたのは、側室・知保の方が家治のために作った醍醐。絶対に表沙汰にはできない」「それゆえ家治は信頼している田沼に、極秘裏で毒抜きが達者な医師を見つけさせようとした」というシナリオで説明しきったのです。史実の行間を巧みに読み解いた、見事な推理といえるでしょう。

 史実では同年8月25日、家治自身が田沼の差し向けた医師の差し出した薬を「毒薬だ、医師を変えてくれ」と言ったにもかかわらず、医師の交代はなく、その日のうちに家治は亡くなってしまったのでした。家治の死の翌日の午後、彼の死体が震えだし、口から大量に吐血したという恐ろしい事態も目撃されています(『天明巷説』)。

 家治が口走ったとされる「毒薬」という言葉も、瀕死の患者にありがちな意識混濁からくる妄想の可能性は高いのですが、なんにせよ、将軍・家治が変死したことは事実ではないかと思われてならないのですね。

 当時の江戸城では(ドラマのように一橋治済ではなく)、田沼意次が将軍「も」毒殺したと囁かれていました。これまで田沼の政敵が死ぬたび、田沼による毒殺説が持ち出されがちだったのですが、ドラマの田沼のセリフでも明言されていたように、「上様」を後ろ盾にしている田沼が家治を毒殺するなど、実際にはありえない話でしょう。

 しかし大きな後ろ盾を失ってしまった田沼意次は8月27日に失脚。大名家としての田沼家の存続は許されたものの、二度と政治の表舞台に戻って来ることはできませんでした。

風前の灯火となった田沼政権

「醍醐」についても触れておきたいと思います。

 知保の方を演じる高梨臨さんの存在を初めて知ったのはNHK朝ドラ『花子とアン』で、その時の役名が「醍醐(亜矢子)さん」だったことを今でも覚えている筆者にとっては、知保の方が醍醐を作る……というのは、それだけでちょっと面白かったのですが、『べらぼう』の醍醐は猛毒入り。微笑んで見ていられるシロモノではありませんでした。

 醍醐といえば、日本におけるチーズの古名のひとつとされがちですが、江戸時代における醍醐とは牛乳に砂糖を加え、固形になるまで煮固めたもので、食べ物というより高級薬の位置付けでした。

 家治の祖父にあたる8代将軍・徳川吉宗も醍醐に注目していた一人です。しかし、当時の日本に牛の乳を飲む習慣はなく、吉宗はインドから白い乳牛3頭をわざわざ輸入し、安房(あわ、現在の千葉県)の牧場で育てながら、醍醐製造に成功しています。そして病人が口にすれば、病を癒やす滋養強壮薬「白牛酪(はくぎゅうらく)」として珍重しました。醍醐とは一般には、存在すら知られていない貴重薬だったのです。

 醍醐はビタミンB1などを豊富に含んでいるため、家治を死に追いやった病気が本当に脚気だったとしたら、醍醐を定期的に食べることで回復できていたかもしれません。

 ドラマの田沼政権はいよいよ風前の灯ですね。松平定信(井上祐貴さん)が、田沼が発案した「貸付金会所令(かしつけきんかいしょれい)」にケチを付け、廃止に追いやろうとする姿も描かれていました。

 また、ドラマでは裏長屋の貧しい庶民たちが「オレたちから金を奪って、大名に貸し付けるんだとさ」などと怒っていました。実際の貸付金会所令とはいかなる法だったかについても、少しお話しておこうと思います。

 史実の貸付金会所令は、松平定信政権の初期においては否定されたものの、最終的に松平自身の手によって「復活」しているんですね。

 田沼時代の貸付金は、現在でいう国債のようなものだったといえるでしょう。もともと幕府は大商人たちから「御用金」と称し、資金を強制的に提供させていました。これは富裕層への事実上の特別課税で、返還義務もなかったのです。

 当然、商人たちからはイヤがられていたのですが、田沼の考案した貸付金会所令は、たんなる御用金とは異なり、「いつか借りた金は利子をつけて返すよ」という名目つきのカネでした。

 田沼考案の貸付金は現在の国債とは異なり、返済がいつになるのか、どれくらい利子をつけてくれるかは、「その時にならなければわからない」という曖昧なシロモノでしたが、御用金よりはマシだと考える富裕層は多かったのではないでしょうか。

 そうやって得た資金を田沼は、見かけは華やかでも裏では困窮しがちな大名をはじめとする武士たちに低利で貸し付ける予定だったのです。

 しかし、田沼に代わって老中職についた松平定信は、田沼により貸付金会所令を「金銭を第一とする政治」の象徴として強く批判し、それを(一時的に)撤廃させています。

 そして自身の新政権では武士の借金を帳消しにする「棄捐令(きえんれい)」などを出したものの、結局、それによって武士に融資していた商人たちが困窮し、社会経済が動かなくなる「現実」には抵抗しきれず、一度は退けた貸付金会所令を復活させるのです。

 定信は、自身の棄捐令によって困窮してしまった金融業者――具体的には、札差(ふださし)と呼ばれ、武士たちが給料として支給される米を現金化する際の仕事を請負い、その手数料で儲け、武士に金貸しもしていた商人たちの保護もするハメになったのでした。

 政治家の言動が、権力の中枢に入る前と入った後では、うってかわって別人になるケースは江戸時代から存在していたわけですね。

蔦重が京伝に支払った原稿料

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

作家、歴史エッセイスト。1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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堀江宏樹
最終更新:2025/08/24 12:00