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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送談義14

『豊臣兄弟!』お供の数は10人だった? 信長の“逃げ恥”金ヶ崎の退き口、記録にも残したくないほどのぶざま・不名誉な逃亡劇

『豊臣兄弟!』お供の数は10人だった? 信長の“逃げ恥”金ヶ崎の退き口、記録にも残したくないほどのぶざま・不名誉な逃亡劇の画像1
『豊臣兄弟!』に出演する池松壮亮、仲野太賀、小栗旬、菅田将暉(写真:Getty Imagesより)

 前回(第14回)の『豊臣兄弟!』、実はそこまで詳細に記録が残っているわけではない「金ヶ崎の退き口」の空白部分を想像力で巧みに補い、濃厚な人間ドラマに仕立てられていました。

長政に囁かれる“兄弟愛”と“恩義説”

 特に織田信長(小栗旬さん)を逃がした後、最後衛にあたる「殿(しんがり)」を務めることになった秀吉・秀長(池松壮亮さん・仲野太賀さん)の豊臣兄弟と、竹中半兵衛(菅田将暉さん)との対話で「味方の人数が少ないときは狭い地形を活かせ(要約)」など、実際に有効な兵法が引用されていたので興味深く拝見しました。

 数で劣る味方を率いて大軍を相手にせねばならないときは、地形が狭い場所で戦うことで、非常に大きな効果を上げることができるのです。たとえば、幕末における“天下分け目の戦い”となった慶応4年(1868年)1月の「鳥羽伏見の戦い」最初期において、徳川慶喜率いる1万5000人の旧幕軍が、わずか5000人の薩摩藩を中心とした官軍こと新政府軍に圧倒されてしまったのも、まさにそういう幅の狭い道を旧幕軍が行軍する“大渋滞”の中で発生してしまった事件でした。

 しかし思うに任せぬ自軍にイラつき、逃亡を選んだ慶喜以上に、このときの信長には憂慮すべきポイントがありました。信長率いる3万の兵というのは、北近江の地に10万石以上(実質的には15万~18万石に相当と見ることも可能)を有する中堅領主・浅井家の仲介で参加しただけの土地の者たちも多かったのではないか……と想像されるからです。

 つまり実際は寄せ集めの混成軍に過ぎず、そういうケースではドラマの竹中半兵衛のセリフにもあったように「旗色が悪くなれば、大半の味方と思っていた兵が逃げ出すものだから、少しでも残れば御の字(要約)」という惨状となりがちでした。

 実はそれだけならまだマシなのです。このときの信長を焦らせたのは、味方だと信じていたはずの3万の兵が、とつぜん寝返り、3万の敵になってしまいかねない状況でした。

 さらに信長が京都への即時撤退を決断せざるをえなかったのが、地形の問題です。金ヶ崎から朝倉家の本拠地・一乗谷に乗り込むには、木ノ芽峠という非常に狭くて急な峠道を通らねばならず、先述の通り、そういう細道は大軍の進軍にはとても不利だったのです。また信長にとって当地は地元ではなく、地の利がある朝倉(+浅井)軍に変則的な攻め方をされるとかなりヤバいのでした。

 ちなみに戦国時代の標準的な軍役規定では「1万石あたり250人」の兵力しか割り振れないという原則があり、そこから浅井軍は5000人程度。多く見積もっても8000人くらいが限界なのです。

 このとき信長は3万もの兵を率いていましたから、いくら約2万から2万5000(と史料では数字が盛られているが、おそらく実際は1万前後の)朝倉と浅井の連合軍とはいえ、彼らを金ヶ崎の地で迎え撃てば、さほど怖くはなかったはず。それでも信長が逃げ出したのは、信じきっていた「義弟」浅井長政(中島歩さん)に裏切られた衝撃と傷心であらゆる味方が信じられなくなってしまったから。味方でさえ敵に見える大パニックの中、急な山道を命からがら駆け抜けて京都に戻るほかなくなった……そういう信長の危機的状況が見えてきませんか?

 それゆえ、史実の信長は逃げに逃げ(まさに“逃げ恥”状態!)、ドラマでは二刻(=4時間)でしたが、実際は数日もかけ、浅井側が「絶対にそこは通らないだろう」と思っていた琵琶湖の西側の急峻な山道、朽木谷を通るルートを選んで、待ち構える浅井軍との衝突をなるべく減らして逃げ延びることを選んだのでした。

 朽木谷を治めていたのが国人領主・朽木元綱でした。一説に松永久秀の交渉によって、当初は信長がやってきたら「殺害しよう」と考えていた朽木が翻意したおかげで、信長は朽木の館で一晩をすごし、京都めざして一目散に逃げおおせることができたのです。

 ちなみにドラマでは秀吉・秀長兄弟が「殿(しんがり)」を務め、彼ら主従と明智光秀(要潤さん)らが身体を張って朝倉・浅井の連合軍を退けた……という描かれ方でしたけど、信長と共に金ヶ崎を出立した家康などの部下たちも、要所では信長を逃すために身体を張って、敵軍の追撃を食い止めたようです。

 この撤退騒動の後に開かれた論功行賞は、秀吉しか記録がないので織田方の各武将の活躍については不明なのですが、信長と側近たちにとっては記録も残したくないほど、ぶざまで不名誉な逃亡劇になっていたのではないでしょうか。

 信長自身、数日かけて京都に帰り着いた時、お供の数が一説にわずか10人程度だったという惨状だったのです。これは3万の兵を信長が失ったというより、部下たちが敵兵と戦っている最中も信長だけは逃げ続け、結局、そのスピードについてこれたのが10人だけということなのでしょうね。

 おそらく史実の信長がいかに意地っ張りで見栄っ張りでも、ドラマのように「宴を支度して待っておる!」と秀吉を粋に迎えることなど難しかったと思われるゆえんです。まぁドラマの信長も物凄い顔で足利義昭(尾上右近さん)に対面していましたが……。ちなみに京都に戻ってきた信長は、翌日から平然と振る舞っていたとされますが、このあたりはブラフ。ただのハッタリ、つまり虚勢でした。

“逃げ恥”の信長を救った秀吉の史実的活躍とは

 ここで秀吉がもっとも危険とされる「殿」のお役目を引き受けたあたりの史実をみてみましょうか。彼らに一乗谷から迫ってくる朝倉軍は木ノ芽峠を通ってくるので数だけは多くても“大渋滞”で、進みが遅いのです。5000人ほどは動員してきた(であろう)浅井軍は、秀吉たちにとって厄介ではありましたが、浅井の第一目的は秀吉たちの部隊を叩くことではなく、逃げてくる信長を討ち取ることでした(そしてそれには失敗している)。

 また、「殿」を務めたのは800~1000人を率いていた秀吉とその主従だけでなく、ドラマにも出てきた数百名を率いていた明智光秀、さらにドラマに出てきませんでしたが、2000人ほどを率いていた池田勝正もいたとされるので、史実の信長逃亡のために結成された「殿」部隊は約3000人。たしかに「勝利」は難しくても、現れた敵を交わしながら撤退していくのであれば、逃げ切れないわけではないかな……という気もします。まさにドラマでいう「勝ちに等しい負け」だったはずですね。

 しかし、生きて戻れただけでは世間に“逃げ恥”を晒してしまった信長の怒りは収まりません。ということで、次回のドラマで描かれるのが織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍が姉川の河原で激突した「姉川の戦い」なのですが、信長への信頼を失っていたからか、連続の軍事協力が重荷だったのか(それは当時の家康の実力から見れば、“最大出力”でした)、徳川家康(松下洸平さん)は5000の兵を出すことに渋ったとされているんですね。

 それに対し、朝倉に寝返ったばかりの浅井軍も徳川軍同様に5000程度の兵数(多くて8000)だったにもかかわらず、破竹の勢いで3万もの兵を率いた織田方に攻めかかり、信長が敷いていた13段の防御陣形の11段目までを正面突破。

 あわや信長に肉薄というところで、榊原康政など徳川軍の若きエースたち率いる別動部隊が朝倉本陣を横から叩くことに成功。流れは織田・徳川軍有利に戻り、浅井父子は小谷城、朝倉勢は一乗谷へと撤退・籠城せざるをえなくなった……と語られがちです。

 ただ、本当にここまで勇壮な力と力のせめぎあいがあったかは不明です。姉川の河原という比較的狭めの場所に13段もの防御陣形は無理ですし、「金ヶ崎の退き口」で失態を見せた信長は3万もの兵は動員できず、多くて1万程度だったのでは、と最近の研究は示唆しており、姉川が両軍の流血で真っ赤に染まったのはもちろん、この戦にまつわる“すごい話”の大部分は、江戸時代に創られたフィクションだと思われます。

 徳川軍だけでなく、浅井軍まで大活躍するのも、二代将軍・秀忠の正室・江が浅井長政の娘であることへの忖度ではないでしょうか。しかし「金ヶ崎の退き口」同様に「姉川の戦い」も「激戦だった」程度の情報しかない中、どのように歴史の空白をドラマが埋めていくのかが注目されるのでした。次回も楽しみです。

過去最大の地獄が予測される信長らの葛藤

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『エリザベート~神の手を持つ王女~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

X:@horiehiroki

堀江宏樹
最終更新:2026/04/19 12:00