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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送談義【特別版】

『豊臣兄弟!』「長秀」改め「秀長」に込めた織田家へ渡した引導と秀吉に続く第二のモンスター化で攻める「九州平定」

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『豊臣兄弟!』「長秀」改め「秀長」に込めた織田家へ渡した引導と秀吉に続く第二のモンスター化で攻める「九州平定」の画像1
豊臣兄弟! 後編(NHK大河ドラマ・ガイド)』(NHK出版)

 今週は『豊臣兄弟!』の放送がお休みでしたので、今回はさまざまな新キャラクターの登場や出来事の陰になってしまい触れ損ねていた、ドラマと史実の秀長(ドラマでは仲野太賀さん)の「違い」について改めてお話しようと思います。

“日本史有数の腹黒さ”秀吉

 ドラマでは最初の頃は、貧農の子として家も衣装もボロボロだった秀長ですが、兄・秀吉(池松壮亮さん)の出世に従い、昨今ではだいぶこぎれいになった印象です。しかし秀吉にはいろいろと「モンスター化」の兆候が見られているのに対し、秀長は外見こそ多少、老けメイクになってはきているものの、キャラクターは青年時代と変わらず、実直でけなげ。良くも悪くも「若い」ままなんですね。

 しかし、史実の秀長の成長を見てみると、非常に面白いことがわかります。

 史実の秀長はかなり早い時期から、秀吉の補佐役をはるかに超えた存在であり、羽柴家の「第二のモンスター」にもなっていたようです。

 秀吉が織田信長(小栗旬さん)から織田家の“中国攻め司令官”に抜擢されたのが、天正5年(1577年)のこと。この時、秀長は秀吉本軍(播磨)とはまったく別のルートで、但馬侵攻軍の総大将として一軍を率いて出撃しました。

 これはドラマでも描かれましたが、兄と同じく武家以外の身分の出身者でありながら、秀長が総大将に成り上がった瞬間でした。

 秀長は自身が残した『泰山府君都状(たいざんふくんとじょう)』という史料から天文9年(1540年)生まれだと判明しているので、この時、数えで38歳。竹田城を見事に攻略した秀長は「竹田城代」となり、但馬半国の軍事・統治の全権を秀吉から委ねられました。今ならアラフォー男性というだけですが、織田信長が愛誦した『敦盛』にも「人間五十年」とあるように、当時の感覚なら、死を意識し始めてもおかしくないこの時期、秀長の軍人そして政治家人生は大きな曲がり角を迎えたのです。

 また、「本能寺の変」(天正10年・1582年)が人生の最大の転機となったのは、秀吉だけでなく秀長も同じでした。信長を討った明智光秀(要潤さん)を滅ぼした秀吉が、実力第一主義の織田家中での発言権をいっそう高め、おそらく根回しに秀長も奔走したであろう「清須会議」でボロ勝ちといってもよい成果を出した話は以前も触れました。

 実際、清須会議における豊臣兄弟の暗躍についてはそこまで一次史料が残されているわけではないのですが、その後の秀長が織田信長の“置き土産”である中国問題の当事者・毛利輝元(濱正悟さん)や小早川隆景(山本浩司さん)らとの外交交渉に秀吉と連名で関わるようになり、「賤ヶ岳合戦」でついに織田家の重鎮・柴田勝家(山口馬木也さん)に勝利した天正11年(1583年)5月以降、毛利側から秀吉・秀長がセットで「御両所」と呼ばれるようにまでなったという事実は注目に値します。

 さらに秀長の存在感が日本中の大名たちの間で拡大したきっかけが、「小牧・長久手の戦い」(天正12年・1584年)です。

 本コラムでは、人生の節目で名前を変えていく戦国武将の風習が現代人には馴染みづらいということで、ずっと「秀長」で押し通してきたのですが、この戦の最中に、彼はそれまでの「長秀(=信長から一字もらった名前)」を捨て、兄から一字もらった「秀長」へと改名しているのです。

「長秀」から「秀長」へ――現代人には「なんでひっくり返したの?」くらいにしか思えないかもしれません。しかし、戦国武将にとって名前の漢字の順番が決定的に大事だったことを思い出しましょう。武将の諱(いみな=正式な名前)は基本的に漢字二文字なんですが、最初に自分の主君、あるいは特別な恩人の名前からひと文字いただく風習がありました。ゆえに織田家家臣時代の彼は、長秀として、つまり織田信長の「長」を自分の名前の最初に掲げる必要がありました。

 しかし織田信長の次男・信雄(山脇辰哉さん)を巻き込んで織田家の家督争いに遅れて参戦してきた徳川家康(松下洸平さん)と豊臣兄弟が戦った「小牧・長久手の戦い」の最中において、ついに兄・秀吉からもらった「秀」の文字を最初に掲げはじめた彼は「自分はもう織田家の影響から脱した存在となった」と世間に大宣言したのでした。それは名実ともに、秀吉がもはや織田家の家臣ではなく、独立した「羽柴秀吉政権」の主であり、秀長もそのNo.2であると名乗りを上げたという意味だったのです。

 そして実際に彼ら兄弟は、「小牧・長久手の戦い」で勝利を収めることになったのです。この戦いは「徳川 vs 豊臣」ではなく、「織田信雄+徳川家康」vs「羽柴秀吉(反乱家臣)」という構図で起きていたことに注目です。局地戦では「官軍」を自称する家康軍が勝利していたのですが、反乱家臣の扱いを受けても秀吉・秀長は平気の平左。軍勢の数と物資の圧倒的物量を確保し、さらに尾張・伊勢にある信雄の根拠地(長島城など)や周辺の城を片端から包囲・直接攻略していったのです。

「オレ様」ぶりを発揮する史実の秀長

 要するに、足軽だった時代からたたき込まれたであろう「生き残るには弱い者から叩け」の作戦で豆腐メンタルの信雄の切り崩しを始めた兄弟は、これまで父・信長の権威に守られ、ろくに攻撃された経験もなかった信雄の領地をじわじわと侵略することでストレスを与え、ノイローゼになった信雄は家康に黙って秀吉と単独講和をしてしまうのでした。

 信雄に裏切られた家康は戦う大義名分すら失い、敗北です。そしてここから、秀長のすさまじい躍進が始まります。

 秀長は翌天正13年1月に秀吉の「名代(代理人)」として信雄の伊勢長島城に乗り込み、1カ月かけてかつての主君の息子・信雄を説得。彼を京都にいる秀吉のもとに上洛させ、「これからは秀吉の家臣になる」と宣言させることに成功したのでした。えぐいというほかありません。

 さらにその後、秀長は信雄の「指南役(=政治的後見人)」になっているのです。このように、あっという間に主君としての織田家は、秀長の手で調略された挙げ句、没落させられてしまったのでした。

「外交官」としてだけでなく、この時期の秀長の活躍は「軍人」としてもめざましく、同年夏(1585年6月〜8月)には、兄からの助太刀を断り、自力で粘った末に四国中で勢いがすごかった長宗我部元親(磯部寛之さん)を降伏させています。秀長は元親が四国で切り取った領土を奪い取り、彼を土佐一国に封じ込めることに成功し、織田信雄同様、長宗我部元親の指南役にもなったのでした。

 この時、「自力でまだ木津城(現在の徳島県鳴門市)を落とせていないのに秀吉が出陣すれば自分の面目が立たない」と秀吉に出陣延期を直訴した書状が現存しており、これはそのまま「オレに最後までやらせろ、それが結局、あなた(=秀吉)の得にもなる」という、かなり自信家発言としか読めないメッセージなのでした。

 つまり……秀長は「控えめで謙虚」というイメージは、後世の創作という部分が大きいのでしょう。実際、不都合が起きると激怒するのも、史実の秀長の一面であったようです。

 ドラマのクライマックスになるであろう「九州平定」(天正15年・1587年)では、秀長が敵対する島津家に対して非常に厳しい領土条件を突きつけた記録があります。当時の島津家は薩摩から北上し、九州内部にまで支配を広げようとしていました。

 九州攻めで日向方面の総大将となり、島津義久・義弘らを降伏させていた秀長は、秀吉から九州全体の戦後処理(領国画定)の実務全権を委ねられます。しかし領土拡張意欲に燃える島津家は、秀長の采配に反発。秀長の外見から「こいつは大したことない」と誤認してしまったのかもしれません。

 島津家は秀長ではなく、秀吉の第一の寵臣だった石田三成(松本怜生さん)を経由して、秀吉から甘い条件を引き出そうと独自交渉を開始。三成も「秀長さんの言うことなんか聞かなくていいよ(超訳)」と島津家に恩を売ろうとしており、それらを嗅ぎつけた秀長が大激怒。手紙を送りつけて叱っています。

 しかし、天正15年8月の最終的な決定では、手柄を立て、兄にアピールしようと意固地になりすぎている秀長を仲裁しようと秀吉の介入があったのでしょうか、島津側には秀長が当初提示していたより広い範囲の領地所有が認められたのでした。

 ということで、ドラマの秀長像はもちろん、なんとなくイメージしているより遙かに史実の秀長は激烈なキャラクターの持ち主だったといえそうです。

 秀長には、九州から大友宗麟という実力者が訪ねてきた時は、彼の手を取って「私に任せてください」とアピールしたとか、過剰接待とも、人たらしともいえる一面も後年の史料からうかがえます。天正19年(1591年)に秀長が亡くなった際、葬儀で導師を務めた古渓宗陳も、秀長のことを「威ありて猛からず」という言葉で評しています(『蒲庵稿』)。威厳はあっても攻撃的ではないというような意味ですね。

 しかしその半面、ちょっとしたエピソードからハミ出てくる、あまりに「オレ様」な一面を考えると、実際に我々が秀長に対面することができたとしたら、彼が「いつもニコニコしてはいるが、目の奥が絶対に笑っていない、得体の知れないおじさん」に見えてしまうのではないかと思えてならないのです。一見、やさしいけれど、隠れ「オレ様」……これこそが史実における秀長のキャラだったといえるかもしれません。

“狂気”に走る秀吉

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『エリザベート~神の手を持つ王女~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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堀江宏樹
最終更新:2026/08/09 12:00