『豊臣兄弟!』利家は勝家の監視役だった――縁戚を警戒した信長と、秀吉が計算づくで結んだ「作られた友情」の真実

前回(第31回)の『豊臣兄弟!』では、「秀吉は信長になろうしている」と見抜いた市(宮﨑あおいさん)と、秀吉・秀長兄弟(池松壮亮さん・仲野太賀さん)がついに全面対立する展開となりました。
秀吉を呼ばずに執り行われた、市を喪主とした信長(小栗旬さん)の葬儀ですが、完全ドラマオリジナルというわけではありません。京都・妙心寺にて、天正10年(1582年)9月11日、越前に住む「某信女」によって、信長の卒哭忌(百日忌)が営まれたことは事実なのです(妙心寺住持の『月航和尚語録』)。そんなことができる「某信女」とは、市を置いてほかには越前にはいないでしょう。「他の有力者は呼んだのに、秀吉はあえて呼ばなかった」というあたりは、その手の情報が残されていないため、ドラマの演出ですが、史実の市も、再婚相手の柴田勝家(山口馬木也さん)とともに、信長亡き後の織田家の主導権争いに加担していたと考えられる一幕です。
一方、京都・大徳寺で秀吉が行った信長の葬儀には、敵対しているはずの前田利家(大東駿介さん)の姿がありましたね。次回「賤ヶ岳(しずがたけ)の決闘」のあらすじは、「信雄(山脇辰哉)を味方につけた秀吉(池松壮亮)は信孝(結木滉星)との戦に圧勝、三法師(清水伊織)を奪還する。勝家(山口馬木也)が雪解けを待ちつつ秀吉との戦の準備を進める中、利家(大東駿介)のもとを、思わぬ人物が訪ねてくる。やがて春が訪れ、羽柴・柴田両軍は賤ケ岳で対峙。にらみあいが続く中、信孝が岐阜で再び挙兵したという知らせが! 秀吉は小一郎(仲野太賀)に後を任せ、岐阜へ向かうが…」とのことですが、利家への「思わぬ人物」の訪問とは、秀吉の妻・寧々(浜辺美波さん)かもしれません。
筆者は「秀吉と利家が若い頃から家族ぐるみの仲だった」「秀吉と利家は仲がよかった」と考えているのですが、その最大の根拠は最晩年の秀吉自身の言葉にあります(『太閤様御覚書』)。
この時、病床にいた62歳の秀吉は彼が57歳の時に授かった――当時では「だいぶ年老いてからできた子ども」である秀頼を残して先立たねばならない大きな不安の中にいたはずです。それゆえ、秀吉は秀頼の守役に前田利家を諸大名たちの前で指名したのでした。
『太閤様御覚書』にはこうあります。
「大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被成御存知候故」。
言葉を補いながら訳すと、「大納言殿(=前田利家の官名)のことは、おさなともだちの頃より律儀な方だと(秀吉さまは)ご存じであったがゆえ、ご自分亡き後の秀頼君をお任せしたいとお考えになった」。同書は慶長3年(1598年)、豊臣政権の中枢にいた「五奉行」の1人、浅野長政による聞き書きであり、秀吉のラストメッセージです。
ここで重要なのは、これが秀吉そして利家をよく知る大名たちに共有される文書だったという点です。言い換えれば、秀吉と利家は「おさなともだち」=「若い頃からの付き合いがある存在」であると聞けば、それだけで「そうだ、そうだ」と皆が納得するほど、共有認識があったということ。
その一方で、近年の実証研究では、二人の若い頃の交流を示す一次史料がないという指摘も高まりつつありますが、その説の根拠も「両者の交流を裏付ける手紙のやりとりが存在しない」という一点のようです。
ここで改めて注目したいのは、当時の手紙、すなわち書状は、距離が離れている者の間にしか発生しないという事実です。同じ城下にいる同輩同士ではよほどのことがない限り、かなり高価だった紙と墨を使って手紙を書いたりする習慣はありませんでした。
そういう経緯もあり、秀吉と利家の間に手紙=書状が存在しないという事実は、若い頃の彼らの距離が遠かった事実にはならないと筆者は考えるのです。それに、秀吉と利家には、前田の四女だった豪姫という養女の絆があるのでした。
豪姫が正式に秀吉の養女になった正確な時期は不明ですが、遅くとも天正5年(1577年)~10年(1582年)の間に書かれたと推定される、決定的な証拠となる秀吉の手紙が存在します(「石原重臣氏所蔵文書」~大西泰正『前田利家・利長』)。
その内容は、「おとと(=お父さん)」と自称する秀吉が「五もじ」という女性を「播磨国姫路」にすぐにでも呼び寄せるよ、というもの。「五もじ」とは今なら「ご(う)ちゃん」とかそういうニュアンスのニックネームで、そう呼びうる秀吉の身内は、秀吉とは大変に気が合った豪姫以外には考えられません。
ゆえに、遅くても天正年間前半には、秀吉・寧々夫妻は利家・まつ夫妻(まつ/菅井友香さん)から豪姫(福地美晴さん)をもらいうけ、関係を構築できていたということ。それ以前――それこそ、まだ秀吉・利家ともに「天下布武」に乗り出す以前の織田信長が治める清須城下での付き合いの中で、後年、子どもがいない秀吉夫妻に、利家夫妻が四女・豪姫を養女にする関係性が育まれたのでは、という想像もできるわけです。そんな秀吉・利家の間に若き日の手紙がないのは、わざわざ書く必要もなかったからではないでしょうか。
さらになかなか他人を信用しない、疑り深い性格だった信長に秀吉と利家、そして柴田勝家が仕えていたのも重要です。状況証拠からの推論ですが、足かけ9年にわたり同じ北陸方面軍で戦い、近しい関係だったはずの柴田勝家と前田利家の間には、この手の縁戚関係がひとつも存在していないのですね。
実は利家は、信長が、勝家の監視役として送りこんだ「目付」なのです。「目付」といえば、ドラマにも秀吉が信長の命令を不実行であると目付役に報告され、窮地に陥るという描写が2回ほど出てきました。
柴田勝家を重用した信長の真意
興味深いことに、史実の柴田勝家は、かつて信長の弟・信勝(中沢元紀さん)――ドラマで何回も信長に回想されていたあの男――を担いで、信長と戦ったことがあるのです。そんな勝家を信長は表面的には許し、能力も評価し、筆頭家老というポジションまで与えましたが、織田家の縁戚に加えるという待遇は与えませんでした。同様に、その才能を見抜いていたであろう利家と勝家が縁戚となり、より強固な関係で結ばれることを信長は警戒もしていたのでしょう。
さらに面白いことに、信長は勝家に織田一門の子を預けはしているのですが、縁戚になることだけは慎重に避けていたのです。つまり縁戚関係になることは、当時、それほど重要視されていたということの裏付けともいえるでしょう。
このような事実からも、養女・豪姫で結ばれた秀吉と利家の関係について「若い頃の交流がなかった」と断言することは難しいと筆者は考えます。
たしかに秀吉と利家の「友情」は、家臣たちをお互いに競わせ、重臣たちの関係ほど、自分の目の届く範囲で統制しようとした信長の意向で、薄れた時期があったかもしれません。さらにそういう条件に加え、秀吉による柴田勝家討伐戦である「賤ヶ岳の合戦」で、秀吉と利家は激突することになってしまいました。普通なら徹底的に関係がこじれてもおかしくはありません。
しかし……驚いたことに「賤ヶ岳の合戦」の終戦の早くも4日後の25日、勝者・秀吉から敗者・利家は好意の証しを受け取ったのでした。秀吉はなんと利家を自軍の先導に抜擢しているのです。さらに月末には、のちの「加賀百万石」の礎となる「加賀北二郡」と「金沢城」が前田利家に与えられたのでした。
話を「賤ヶ岳の合戦」当日に戻しましょう。
天正11年(1583年)4月21日、柴田方として布陣した利家ですが、秀吉軍の猛攻に柴田勢が総崩れとなる中、敗走せざるをえなくなりました。その中で、利家も秀吉から追撃を受けているのです。
ところが、敗者・利家への戦後の厚遇という通常の理屈では考えられない結末を理由に「秀吉と利家は内通し、勝家を裏切るように仕組まれていたのでは」という噂が流れ始めました。それに対し、前田家家臣・村井長明という人物が「謀反とは合点もゆかぬ」と憤った記録もあります。江戸時代初期になっても、複数の文書で前田家の家臣たちが「利家の潔白」を証明しようと躍起なのが確認できるほどなんですね。
前田家側の記録では、敗走時の利家がその途上で名のある家臣たちを多数失っているとされ、「演技の敗走なら、こうはならないだろう」といわれているのですが、それこそが事実でしょう。秀吉は「おさなともだち」の利家を本気でぶっ殺す勢いで叩きまくっていたのでした。
それなのに繰り返しになりますが、合戦の4日後の4月25日、秀吉は利家のことを自軍の先頭に立てて、さらに月末には領地を加増するという破格の厚遇を見せつけたのでした……。この二面性に秀吉の恐るべき狡猾さが読み取れる気がします。
秀吉の利家厚遇は「裏切りの報酬」などではなく、本気で敵対し、ボコボコにうち負かした相手を再び手中に取り込むためのエサでした。アメとムチならぬ、ムチとアメです。その使い分けに加え、切り替え速度の早さこそが秀吉ならではの「人たらし」の才能――人心掌握術だったといえるでしょう。
利家が秀吉に厚遇された理由も、その切り替えの早さだと思われます。命がけの敗走劇からわずか4日後、加賀への侵攻を開始した秀吉軍の先頭に立つということは、すでに利家の心の中に仲間だった諸将を攻撃することもいとわないという覚悟が生まれたということ。幸いにして、加賀の柴田方の諸将の多くは降伏を選択したので、利家の任務も接収が中心だったようですが……。
また利家の厚遇については、彼の嫡男・利長が信長の娘婿だったから。信長の娘婿たちを「コレクション」していた秀吉にはそれが魅力的だったから、という有力な仮説もあるのです。
この当時の秀吉は4人いた信長の「娘婿(養女の婿を含む)」たちのうち、とくに有力な3人――蒲生氏郷、丹羽長重、筒井定次をすでに配下に置いていました。
秀吉による織田政権乗っ取りは、こうやって当時重視されていた縁戚関係を取り込むことで強化されたのでしたが、その4人目として父・利家と一心同体である前田利長の取り込みが計られ、前田父子の厚遇が始まったというシナリオは無視できないと思われます(ちなみに徳川家康の嫡男・信康も信長の長女・五徳姫を正室にしていたが、彼はすでに天正7年・1579年に自刃)。
以上から考えて、秀吉と利家の間に長年の「友情」があったことは間違いありません。「賤ヶ岳の合戦」の後も両者の関係は深まり、天正13年(1585)頃には、利家の三女・加賀殿(摩阿)が秀吉の側室の列に加わっていますね。しかし、それは利家という男に利用価値があったから。少なくとも「賤ヶ岳の合戦」以降の秀吉と利家の友情は、絶対的勝者である秀吉の損得勘定の結果、「作られた友情」でもあったことは忘れてはいけないでしょう。
(文=堀江宏樹)
