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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送談義34

『豊臣兄弟!』家康の軍事的勝利「小牧・長久手の戦い」を政治力で覆し、信雄を追い込んだ秀吉の底知れぬ恐ろしさ

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『豊臣兄弟!』家康の軍事的勝利「小牧・長久手の戦い」を政治力で覆し、信雄を追い込んだ秀吉の底知れぬ恐ろしさの画像1
『豊臣兄弟!』で徳川家康を演じる松下洸平。(写真:GettyImagesより)

 前回(第34回)の『豊臣兄弟!』は、松下洸平さん演じる徳川家康が実質的な主人公といえる「家康回」でした。ポーカーフェイスで、何を考えているのかよくわからない印象が強かったドラマの家康ですが、長い回想シーンで、これまでドラマでは触れられないままだった苦難続きの彼の半生が描かれましたね。

織田信雄が秀吉から受けた“辱め”

 今川家の人質として、肩身狭く暮らさざるをえなかった若き日から、信長(小栗旬さん)との関係の中で、正室・築山殿と、嫡男・松平信康を処刑するまでに追い込まれるなど、「人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し」という家康の遺訓(とされる言葉)を彷彿とさせる内容でした。

 次回(第35回)からは、そんな家康と、また別の意味で苦労人だった秀吉(池松壮亮さん)が激突した「小牧・長久手の戦い」(天正12年、1584年)が始まります。

 同年3月6日、織田信雄(ドラマでは山脇辰哉さん)が秀吉に内通していた(とされる)咎で岡田重孝たち3人の家老を処刑させたことで、秀吉と信雄――そして信雄が助けを求めた家康との対立が表面化。

 すぐに家康軍の先発隊として、前回、ドラマ初登場だった酒井忠次(天野ひろゆきさん)が信雄領の伊勢長島に向かう中、家康が率いる8000人からなる本隊が浜松城を出立したのが、7日。

 ドラマでは岡田は登場せず、信雄の心の弱さも知った上で彼に忠義を尽くそうとし、秀吉勢との交渉にも意欲を見せていた重臣・津川雄光(早瀬栄之丞さん)が登場。そんな津川のことを家康が信雄に命じ、無理矢理斬り殺させ、抑止力を失った信雄は秀吉たちと敵対してしまう……という描かれ方だったと思います。

 ただし史実で見る限り、あまりに整然と事が進みすぎているので、少なくとも、家康と信雄の間には一点の水漏れもない形で密約が成立していたのだと思われます。信雄の家老たちは合意の上で処刑されたのか、それとも突然、殺されたのかまではわかりませんが……。

 史実の秀吉にとって、慎重派の家康がここまで素早く動いたのはむしろ驚きであり、同時に手強いライバルである家康を信雄ごと始末できるよいチャンスだと思ったはずです。

 こうして戦国時代の二大スターである秀吉と家康が真正面からぶつかった機会は、この「小牧・長久手の戦い」ただ一度だけ。しかし、その戦い方を見ていると、2人の「英傑」の個性がいかに真逆だったかということが何より証明されて面白いのですね。

 まず、戦いの初手を見るだけでも「いかに華々しく勝利できるか」という観点から「攻撃」を重視する秀吉と、「いかに手堅く守り、確実に勝利できるか」という観点から「防御」を重視する家康という個性の違いが浮き彫りになるように思われます。

 同時に秀吉は、自らの「人たらし」能力にも全幅の信頼を置いていたようです。秀吉はお得意の調略作戦で味方に引き込んだ元・信雄方の池田恒興、森長可(もり・ながよし)を「信頼した」と見せかけ、上手いこと使い倒す作戦をいつもどおり選択したのでした。

 3月6日の信雄の3人の家老の死以降、対立が表面化・激化した秀吉と信雄・家康ですが、両者の軍勢が、信雄の領内の要衝であった犬山城――これは秀吉の配下となった池田恒興(堀井新太さん)が、信雄勢を打ち負かし、奪取成功していました――と、残された小牧山城に家康勢が布陣する形で睨み合うことになったのが4月初頭。

 4月4日、犬山城を陥落させた池田恒興が秀吉に進言します。

「家康は、かつて信長公が建てたままになっていた小牧山城の改修工事完成を急ぐ余り(実際に家康はわずかな期間でこの城に広大な堀や土塁を巡らせ、最新鋭の要塞への“魔改造”に大成功している)、彼の本拠地である三河・岡崎地域の防衛は手薄になっているはず。ここで岡崎を攻撃すれば、家康でも小牧山城から出てこないはずがない。ここを家康・信雄勢3万に対し、10万の兵力を誇るわれらが手勢(=秀吉勢)で叩けば、一気に攻め滅ぼせる!」というような内容です。

 しかもこれは故・信長が得意としていた「中入り」といわれる戦法でした。

秀吉が採用した「勝率の低いギャンブル戦法」とは

 ところが、秀吉は池田の誘惑を退けます。信長以外の成功例が少ない戦法だったからですね。――とはいえ、「中入り」といわれても、現代人にはピンと来ない作戦名でしょうから、ここで解説を挟みます。中入りを一言でいうと、「勝率の低いギャンブル戦法」です。

 具体的には「両軍が対陣し、にらみ合っている最中に、一部の兵力を別動隊として迂回させ、敵の本拠地や背後を奇襲する戦法」なのですが、これだけで思い出す場面はありませんか?

 そう、若き日の織田信長が、永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」で、大軍を率いて休憩中の今川義元の本陣を、わずかな手勢を率いた信長が迂回奇襲に成功。華々しく大勝利したとされる作戦が、まさに「中入り」なのです。

 近年の研究では、「本当に信長は迂回奇襲したのか」と疑問視されるようになったのも事実なのですが、もし成功すれば、勝利者としての印象は比類ないものとなります。

 ゆえに池田の提案に難色を示しながらも、秀吉の中では「どうせならド派手に家康に勝利したい」という欲求は高まるばかり。結局、4月6日、秀吉は中入りを許可してしまうのでした。そして三好信吉(のちの羽柴秀次)を名目上の総大将に据え、池田恒興・元助父子、森長可、堀秀政らの軍勢(約2万4000人)を出陣させたのでした。

 そして8日、秀吉勢は家康勢の拠点・尾張岩崎城を攻略。ここまでは秀吉の思い通りに動いていたはずです。

 ところが……秀吉のもくろみと、彼の手勢の動きは、冷徹な家康に十分すぎるほどに察知されていました。

 もともと野戦は家康の大の得意とするところでした。家康は9000の兵を率いて極秘裏に小牧山を出発。色金山から富士ヶ根の段丘上に兵を展開して秀吉勢を待ち伏せし、知らずにやってきた池田・森隊を後方から攻撃するのでした。

 縦に長く展開した池田・森隊が後方の自軍の異変に気づいて引き返そうとしたとき、長久手(現在の愛知県・長久手)の地で家康本隊と正面から鉢合わせすることになり、大敗を喫してしまったのです。要するに「中入り」で敵を出し抜こうとした奇襲部隊が、逆に出し抜かれ、ボコボコに叩き返されてしまったのでした。しかもこの時、池田恒興・元助父子、森長可らはあえなく戦死しています。

 家康勢の中で出色の働きを見せた武将として、この「小牧・長久手の戦い」が初陣だったといわれる井伊直政がいました。

 直政が率いていたのが、戦いの約2年前にあたる天正10年(1582年)、家康が旧・武田領であった甲斐・信濃地域を併合した際、味方になった武田家の旧臣・約120名の精鋭部隊です(複数の資料によると、117名)。

 しかも彼らは戦国最強を謳われた武田軍の象徴であった「赤備え」――武田家の名将・山県昌景ゆかりの朱色軍装を身に付けていたわけです。そんな彼らが直政に指揮され、鉄砲300挺で秀吉勢の意表を突くような活躍を見せ、家康勢を大勝利に導いたので、直政に「井伊の赤鬼」との異名が生まれたのだとか……。

 おそらくこの時が初陣であった直政ですが、初陣以前とそれ以降で、直政に対する徳川家中のイメージもがらりと変わったことでしょう。それまでの直政といえば、家康が寵愛する美少年というイメージのほうが強かったはずですから……。ドラマでも『ミュージカル テニスの王子様』で活躍した阿久津仁愛さんを直政役にするなど、ビジュアルに注力していますね。

 ちなみに栗原類さん演じる榊原康政にも相当なインパクトがありましたが、直政と並び、家康配下の「新星」であった康政にも、わずか5日(!)で小牧山城の大改修工事に成功という逸話があります。まぁ、江戸時代に成立した『長久手合戦記』という軍記物語がソースなので史実性は微妙なのですが、なんとなくドラマで取り上げられそうな気もしますね。

 さて……派手な勝利を夢見た秀吉の「甘さ」を見抜いた家康の勝利が目立つ「小牧・長久手の戦い」前半ですが、これだけで心折れるような秀吉ではありません。以前のコラムでも何度か触れたように、秀吉は合戦で負けた直後に織田信雄という、家康にとっては戦の「大義名分」にして「急所」でもある存在を切り崩しにかかったのでした。具体的にはじわじわと信雄の所領を攻略し、それでメンタルをやられた信雄は早期に音を上げるのです。こうして秀吉は家康に無断で降伏するよう、信雄を追い込んだのでした。

 この辺をドラマでいかに描くか楽しみですが、史実で見るかぎり、始まってしまった戦争を「戦闘」というより「政治力」で無化するという規格外の戦法で勝利する秀吉の恐ろしさには震えずにはいられません……。

 前回のドラマでは、家康が、秀吉・秀長(仲野太賀さん)に「昔はなにを考えているのかさっぱりわからなかったが、今では手に取るようにわかる」と言ったと記憶しますが、史実の家康は、秀吉そして秀長という人物――はっきりいうと武家以外に生まれ、武士として頭角を現した怪物たちの底知れなさをひしひしと感じていたことは間違いないでしょう。これはその後、家康が秀吉との正面激突を絶対に避けようとした理由ではないでしょうか。

 さて……今回のコラムでは、秀吉と家康の考え方の違いをクローズアップしました。為政者としては秀吉よりも家康が長けていたと思われる方も多いのではないでしょうか。実際に家康が、徳川幕府という大組織を作り、260年にも及ぶ平和を実現したことは事実ですが、家康が秀吉の試みた政策を徹底的に検証し、引き継いだ部分も大きいのです。

 前作の大河『べらぼう』の舞台であった吉原など遊郭という制度でさえ、実は秀吉が遊女たちを一カ所に集めようとした計画を、家康が徹底化したものだったといえるでしょう。秀吉のアイデアを家康が盤石にしたのが「徳川の平和」こと「パクス・トクガワーナ」の内訳だった――機会があれば、こういうお話もしてみたいものです。

前田利家を“守る”ために選んだ犠牲

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『エリザベート~神の手を持つ王女~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

X:@horiehiroki

堀江宏樹
最終更新:2026/09/13 12:00