京アニ事件、北九州中三殺傷事件…繰り返される実名報道への疑問
前回、北九州中三殺傷事件を巡る報道で、フジテレビ系列『めざまし8』が批判された事例を取り上げました。2024年12月20日放送回で、番組コメンテーターのカズレーザー氏が「中学生の当日の行動とかは、お伝えしなくていいと思う」と指摘。それが発端となり、マスコミによる被害者のプライバシー侵害を問題視する声がネット上で噴出したのです。
マスコミ批判のカズレーザーが賞賛
「被害者の名前や写真をさらすことに何の意味があるのか?」
殺人事件、特に無辜の人々が理不尽な理由で犠牲になるケースが報じられるたびに、この問いは繰り返されてきました。繰り返される、ということは、マスコミは度重なる批判を受けながらもその行為を続けているということ。なぜなのでしょうか。この問いに向き合ってみます。
名前や写真を報じる理由は「特にない」?
まず、マスコミはどのような論理で被害者の情報を報じているのか。これを整理する上で近年もっとも重要な出来事が、2019年7月18日に起きた「京都アニメーション放火殺人事件」です。記憶に残っている方も多いと思いますが、手短に経緯を振り返ります。
ポイントは事件発生から4日後、京都アニメーションが京都府警に対し、遺族に配慮するため犠牲者の実名公表を控えるよう申し入れをしていたことです。同年8月2日、京都府警は犠牲者35名(当時。最終的に36名が亡くなった)のうち、遺族の了承が得られた10名の実名を府警記者クラブ所属の報道各社に提供しますが、事態が急転するのはその後でした。
8月20日、在洛新聞放送編集責任者会議(朝日新聞京都支局、NHK京都放送局など、京都に拠点を置く報道機関12社による団体)が、残りの25名の実名も公表するよう京都府警に申し入れをします。これが引き金となり、極めて苛烈なマスコミ批判が起きました。
そして8月27日、犠牲者25名のうち20名の遺族が望んでいなかったものの、京都府警は全員の実名を公表。大手マスコミは軒並みそれを報じるのですが、実名報道を巡る過去最大級の批判を無視するわけにはいかず、各社は実名が必要な理由を表明していきます。
一例として、日本新聞協会が事件後に公開した「実名報道に関する考え方」から一部抜粋します。
社会で共有すべき情報を皆さんに伝え、記録することが、私たち報道機関の責務です。中でも、誰が被害に遭ったのかという事実は、その核心です。被害に遭った人がわからない匿名社会では、被害者側から事件の教訓を得たり、後世の人が検証したりすることもできなくなります。
犠牲者の名前や写真、映像が人々の心に訴えかける力はとても強いものです。(中略)名前を知り、在りし日の人生を知ることで、人々は犠牲者をより身近に感じ、その死を悼みます。名前は、犠牲者への共感を生み、事件を他人事と思わせず、再発防止に向けた制度の改善などの議論を促す力になると考えており、そうした例も数多くあります。
これで「納得した」と膝を打つ人はどれくらいいるでしょうか。
筆者はメディアやジャーナリズムの講義を担当する大学教員ですが、職歴17年目を迎える現役の記者でもあります。だから、取材活動をする上で実名の重要性は身に染みています。それを頼りに別の関係者へと取材を広げられるし、ウラ取りにも欠かせません。また、記事を書く際も名前や人柄、写真を盛り込んだ方が感情に訴えるものになるのも事実。筆者自身、取材時は名前と生年月日を必ず尋ねます(取材の意図や個人情報をどう扱うかを伝え、承諾が得られない場合は書かない、という立場をとりますが)。
しかし、故人の情報公開を望まない遺族がいること。また、故人の情報をニュースで見聞きすることで遺族が悲しみを深める事例が少なからず存在すること。これらを無視して犠牲者の実名報道を正当化できるほどの強靭な論理が、「実名報道に関する考え方」からはいまいち読み取れないように思います。
実際、ニュースサイト「ハフポスト」が京アニ事件後に行った実名報道についてのアンケートでは、マスコミ各社の声明に「納得できる」「やや納得できる」と回答したのは17.4%でした。
ここで気になるのが、京アニ事件で批判が殺到したのは、実名報道をする意義の説明が「社会に届いていない」から、といった声が一部のマスコミ関係者から聞こえてくることです。ならばもっと腰を据えて「意義」を学べば納得できるものなのか。
日本新聞協会が2006年に刊行した『実名と報道』という約140ページの冊子は、マスコミが実名報道を行う理由をもっとも綿密かつ詳細に論じた資料のひとつです。これほどの量の文書からごく一部を抜粋するのは印象操作のようで気が引けますが、この冊子の核心的な主張は次のものです。
「実名こそが、国民の知るべき事実の核」「私たちメディアの最も大切な原則、それが『実名報道』です」。
そして、実名を書くことで「人権を守り」「民主主義を支えたい」という決意が記されています。
記者の端くれである筆者ですら「そうかな?」という感想を抱きます。
さらに肝心なことは、理念的な主張が先行し、誰もが腹落ちできるような実名報道を必要とする具体的な根拠はやはり読み取れないのです。穿った見方をすれば、存在しないものを何とか正当化するために、悪戦苦闘しているような印象すら受けます。
この不可解な状況を、実に簡潔な仮説で説明しているのが、共同通信の元記者で同志社大学教授を務めた浅野健一氏です。
曰く、マスコミが実名報道に固執する理由は「特にない」。昔からそうだったからだ、というのです。拍子抜けしそうな話ですが、『実名と報道』がつくられるまでの経緯を知ると、納得できる部分もあります。
発端は、マスコミに対する警察のスタンスの変化だったとされます。マスコミは基本的に、警察が記者会見で発表した実名を報じます。敗戦後しばらくの間、ほぼすべての事件は実名報道でした。しかし時代の変遷とともに人権意識が高まり、1980年代半ばから警察は被害者を匿名で発表するケースが増加。さらに2004年、警察が被害者名を秘匿する権限を強化する「犯罪被害者等基本計画」が策定されると、実名発表を要求するマスコミの声が高まりました。『実名と報道』が刊行されるのはその2年後です。
当時のマスコミは「匿名発表では、被害者やその周辺取材が困難になり、警察に都合の悪いことが隠される」との論理を掲げました。しかし、ことの本質はそれまで得られていたリソース(実名)が削減されることに危機感を覚えた、ということではないでしょうか。その防衛反応として、構築されたものが現在語られている「実名報道の意義」だとしたら、多くの人が違和感を抱くのも無理からぬことでしょう。
ただ、ここで強調したいのは、マスコミが独自の理念を掲げること自体は悪くはない、ということです。避けなければならないのは、閉鎖的な産業構造のなかで、そうした理念が部外者には理解不能な教条になってしまうこと。だからこそ、マスコミの論理と市井の人々の論理に齟齬が生じた場合、双方向から点検を行うための姿勢と手段が求められます。
(文=小神野真弘)