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教育ジャーナリスト・後藤健夫の「Fランクから消滅大学になる日」教育ビジネス論#11

Fラン大の授業はbe動詞から? 揶揄の先にある大学の存在価値

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いちからお勉強? (写真はイメージ:Getty Imagesより)

 先日、ある企業の若手社内勉強会の講師を務めた。テーマは「これからの大学と教育」だ。事前に受けた質問の中に「少子化にもかかわらず、大学が減らないため、大学の質が低下しており、大学入試は下位大学では形骸化している。いかがなものか」という懸念が寄せられていた。

良妻賢母型はFラン化の危機

 大学教育の質においては、4月15日に行われた財務省の財務制度分科会が「定員充足率だけで教育の質を判断できるわけではないものの、定員割れ私立大学の中には、義務教育や中等教育で学ぶような内容の授業が行われている大学も見受けられる。社会で活躍できる優れた人材を育成できるよう、教育の質の確保・向上が必要」と指摘した。


 さらには定員割れした私立大学における授業の例として、各大学のWebサイトに公開されているシラバスから抜粋、編集して、数学では「四則演算から始める」、英語では「文型の基本とbe 動詞の基本的な機能を整理」、国語では「原稿用紙の使い方を学ぶ」など、義務教育段階で学ぶべきことを大学でも教えていることを具体的に示した。

 確かに勉強会での質問や財務省の指摘のような「Fラン」と揶揄される大学が存在する。

 大学教員たちは、もう25年以上前から学生の質の低下を嘆いている。当時でも、高校の政治経済や中学の公民で習うような基本事項をまとめた教材を、学生に配付して授業をする大学もあった。そうした大学でも定員割れを起こしていなかったから、大学の質の低下は必ずしも選抜試験で競争がないからとは言えない。


 むしろ、そうした学生であっても「高校卒業」の扱いを受けているという現実にこそ、問題があるのかもしれない。これは何十年も前から指摘されてきた課題だ。いまや高齢者となった団塊世代は、当時いったいどれほどのことを学んで高校を卒業したのだろうか。進学率が上昇したことで、学力の低下を嘆く声もあるが、当時は人手不足も背景にあり、最終学歴を問わず人材として重宝されていたのではないか。

 先進国を見渡せば、日本の大学進学率はそれほど高くない。大学を減らすことは、大学進学率の低下に繋がる可能性があるが、それで大丈夫だろうか?

 一方で、少子化の中で、社会ニーズに合わない「良妻賢母」型の女子大が退場を迫られているように、大学は自然淘汰されている。

 
 そもそも大学の数を減らす必要があるのだろうか? 大学の質の低下を嘆く必要はない。大学の役割の変化と捉えてはどうか。

 生涯学習の視点に立ち、学習の進み方は人それぞれであると捉えるなら、時代や社会の変化に応じて学び直す機会を提供することには意義がある。時間をかけてでも、社会が求める知識や技能を身につけられる教育機関であるならば、その存在価値はまだ十分にあるだろう。

 また、「リスキリング」は本来、本人が費用を負担して取り組むべきものだ。国の予算で強制的に学ばせるような形にしてはならない。誰もが経験しているように、やらされる勉強からは本当の定着や成果は生まれにくい。

 すでに大学をひと括りにして語れないように、大学の機能、役割はもっと明確に分化すべきである。どの大学も同じように高度な知識や技術を学ぶものとして存在する必要はない。大学の中には、コミュニティカレッジとして、生涯学習や学び直し(学び足し)をする教育機関として存在しても構わない。もちろん、財務省が指摘をするように助成に関しては機能や役割に応じたメリハリを持つべきだが。

 勉強会の事前質問のように、一部の大学、高校の教育は空洞化、形骸化しているようにも捉えられるが、それを入学試験のような競争で煽ることが解決に繋がるだろうか? 少子化の中で大学を序列化すれば競争が起きるだろうか?

 一部の難関大学を維持したり作ったりすることはできるが、生涯学習や生活者個々の教育水準を上げるうえでは、むしろ阻害要因となり、その効果は限定的だ。


 それに、受験勉強を受験学習とは言わないように「勉強」はその漢字が意味をもたらすように「強いる」ものだ。強いられて学んでいてはあまり豊かに学べないだろう。

 果たして、競争や学習進度に煽られて学ぶことを豊かだと言えるだろうか。使役的な「勉強」から自発的な「学習」への転換が、いまの日本の教育の課題である。

教育を捉え直すことの必要性

 少子化の中で、学校や大学の多様化が求められるのではなく、ひとつの教育機関の中に多様な学習者がいて、その多様性への対応として個別化が求められている。

 競争や学習進度に煽られて勉強させられたときに、それに対応できない児童生徒はどうなるだろうか。それに学びたいといった欲求はいつ芽生えるかもわからない。高度経済成長期のように教育に効率化を求める時代は終わった。こうした状況に、教育は少子化だからこそ学習者の多様化への対応を求められ、その手段としてデジタル技術、通信技術を活用する時代だ。

 少子化の中で教育を捉え直すことが必要だ。


 大学等を高等教育と位置づけること自体、見直す必要があるだろう。「高等」の文字が大学を生きにくくしている。

 日本では、教育を、初等・中等・高等などと教育の段階を示すが、海外のように学ぶ順番を示すような「Primary、Secondary、Tertiary 」とするぐらいが良いのだろう。大学を「高等」教育にしてしまうことで、日本では生涯学習が根付かないのではないか。

 まずは文部科学省が「高等教育局」といった局名を変えることだ。
省庁こそ、社会からの要請をしっかりと捉えて、必要に応じて変貌を遂げるべきだ。

(文=後藤健夫/教育ジャーナリスト)

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後藤 健夫

コラムニスト/教育ジャーナリスト/大学コンサルタント
南山大学を卒業後、学校法人河合塾、早稲田大学、東京工科大学等に勤務。現在、大学の募集戦略支援や高校の大学進学支援、「探究学習」のカリキュラム・教材開発、授業改善等に従事。日本経済新聞に「受験のリアル<大学編>」を連載するなど、コラムや記事を執筆。

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後藤 健夫
最終更新:2025/05/01 21:49