馬車が走る大都市ニューヨーク 市民の安全や動物愛護より優先される「政治的事情」

ニューヨークの中心部ではいまだに馬車が走っている。セントラル・パーク周辺を訪れる観光客を乗せるためのものだ。この馬車の走行を禁止するべきかどうかという議論は、長年、ニューヨーク市民の間で交わされてきた。交通への影響、馬のフンによる衛生問題、動物虐待との指摘などから禁止を求める声は根強い。今年5月、馬2頭が暴走し、けが人が出たことで改めて馬車の安全性に疑問が投げかけられた。それでも存廃をめぐる論争に結論がくだされる雰囲気はない。そこには政治的な「事情」があるからだ。
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セントラル・パークで馬暴走相次ぐ
馬車を引っ張る馬が暴走し始めたのは、5月26日午後2時半ごろだった。セントラル・パーク内の動物園近くで、馬車に客を乗せようとした際に手綱が緩み、馬が突然、走り出した。近くにいたもう1頭も興奮して暴走した。
「コーチマン」と呼ばれる馬車の操縦者は乗っておらず、馬は好き勝手に走った。1頭は公園を南に向かい、「プラザ合意」で有名なプラザホテルの方向に走った。しかし、バスに行く手を阻まれて方向を転換。再び公園内を走り、自転車で客車を引く「自転車タクシー」と衝突した。近くにいた別の「自転車タクシー」の運転手が馬を追いかけ、走行しながら暴走をとめたが、コーチマンら4人がけがをした。
逃走劇はソーシャルメディアでまたたく間にニューヨーク市民の間に広がり、話題をさらった。
馬が向かったパレスホテルより先には、ティファニーやルイ・ヴィトンなど高級ブランドの店舗が立ち並ぶ5番街がある。バスに行く手を阻まれても馬が直進していれば、多くの市民や観光客を巻き込む事態に発展する恐れもあった。
セントラル・パークでは8日前の5月18日にも、馬が馬車をつけたまま逃げ出していたが、この時はけが人はいなかった。2022年にはセントラル・パークの外を走っていた馬車が車2台と衝突。2018年には、通行人が傘を開いたことに驚いた馬が暴れ、3人がけがをしている。馬による事故はニューヨークでは目新しいものではないが、いつか大事故が起きるのではないかという不安の声は強まっている。
規制厳しく32度以上なら運行中止
ニューヨーク市内の馬車はセントラル・パーク内のほか、公園の外は34番街まで運行することができる。市内中心部のタイムズ・スクエアなども運行範囲に入っている。観光客向けで、乗車料金はチップを含め1時間約200ドルだ。
ニューヨーク市や市警察本部(NYPD)の許可を得た民間業者が運営しており、登録されている馬は約200頭にのぼる。タイムズ・スクエアに近いヘルズキッチン地区のきゅう舎で飼育されている。
馬車は、車が開発される前まではニューヨークの交通手段の花形だった。1853年には、レールの上を馬が引く路面電車がマンハッタン内を走り、1日に12万人のニューヨーカーを運んでいた。
馬はかなり長い距離を走ることを強いられ、1880年ごろには、市内の道路上で1日平均41頭、年間で1万5000頭もの馬が死んだとされている。過重労働や頻繁な鞭打ち、病気の蔓延で馬車馬の平均寿命は約2年だったという。
現在では観光用となった馬車産業だが、運行規制は厳しい。すべての馬車馬は年2回の獣医による診察を受け、ワクチンはすべて接種することが義務付けられている。
1日9時間以上馬車を引くことはできず、毎年5週間、ニューヨーク市外の馬の施設で休養させなければならない。5歳未満または26歳以上の馬の馬車利用は禁じられ、寒い時期は毛布を着用させ、個々のきゅう舎は少なくとも60平方フィート(約6平方メートル)の広さが必要だと規定されている。
地球温暖化の影響とみられる気温の上昇で、ニューヨークも夏は猛暑になるが、ニューヨーク市議会は2019年に気温が華氏90度(摂氏約32度)以上になった場合は、馬車の乗車券を販売することを禁じる法案を可決した。馬を暑さから守ることが目的だ。
ニューヨークの中心部は、自動車や自転車、歩行者が入り乱れている。排気ガスも多く、馬にとっては過酷な環境だ。動物愛護団体は、こうした条件の中で馬車を引っ張らせるのは「虐待行為だ」と指摘し、馬車の運行の即時停止を求めている。
馬のフンが道路に残されていることもしばしばあり、衛生面を心配する声も多い。
2022年の世論調査では有権者の71%が馬車の運行を禁止するべきだと答えている。
世論は禁止に傾くも立ちはだかる労働組合
ニューヨーク市議会にも度々、馬車禁止を目的とした法案が提出されているが、禁止につながる法律が成立したことはない。
2014年には馬車禁止を公約に掲げたビル・デブラシオ市長が就任したが、2期8年の任期で公約は果たせなかった。
その背景には馬車運転手が所属する労働組合の存在がある。現在、馬車産業には約300人が働いており、ニューヨークの一大労働組合の「運輸労働組合(TWU)」に加盟している。コーチマンの仕事は移民の仕事であり、TWUは「移民の職を守る」との立場から一貫して馬車の廃止に反対している。
ニューヨークは圧倒的に民主党が強い。市議の多くは労働組合が支持基盤であり、TWUが反対する馬車禁止を具体的に進めることはできない。
米国ではシカゴやラスベガスが市内での馬車の運行を禁止している。海外ではオランダのアムステルダムやカナダのモントリオール、トルコのイスタンブールなどで禁止され、都市部での馬車禁止の流れは広がっている。
馬車の存廃議論は「公共の利益」が最優先されるべきものだが、ニューヨークでは、その前に「政治家の利益」が立ちはだかっている。
(文=言問通)
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