華をまとった現代の「成り上がり」ー私がこの男に惹かれたワケ
人々を魅了する男は、どの世界にも存在する。一言で言うと「華のある男」だ。格闘家の皇治選手もその一人と言えるだろう。私が皇治選手に注目したのは2017年のことで、今から8年前になる。
きっかけは、ある選手との記者会見でのやり取りをYouTubeで見たことだった。
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物づくりにおいて、私は気になるシーンがあると何度も見返し、なぜ気になったのか、なぜ惹きつけられるのかを自分の中で常に追求している。それは、小説や映画、マンガ、ドラマ、歌に限らず、目にしたもの、耳にしたものすべてに対して、そういう習慣を持っている。人の話だってそうだし、写真一枚にしたってそうだ。
皇治選手の記者会見での表情や言葉に惹きつけられた私は、何度もその模様を見返していた。そして、「この選手はこれからもっと人気が出るだろう」と予想するのは難しいことではなかった。なぜなら、トークのセンスが抜群によかったのだ。事実、すでに彼は、2014年5月に新体制でスタートした『新生K-1』で絶大な人気を博していた。私はそのことを後から知った。
私が皇治選手に直に接し、「独特の華がある」と強く感じたのは、今から4年前のドラマ『ムショぼけ』の撮影現場だった。その頃には、多くの人たちが注目するマッチメイクを経て、さらに知名度を高めていた皇治選手に会って、「なるほど」と思わされた。
その後、2人でゆっくりいろいろなことを話したのは、去年暮れ。ドラマ『インフォーマ』の撮影でも使わせてもらっている私の地元、尼崎にある焼肉「光(みつ)」で食事した時だった。
それまでも皇治選手には試合に招待してもらったり、皇治選手が経営する飲食店のプレーオープンにお邪魔したりと交友はあったのだが、2人でゆっくりと話すのは初めてだった。その時に確信した。まわりくどい描写や説明は嫌いなので一言で述べると、良い男なのだと。
カメラの前で見せる姿と実社会での姿をきちんと使い分けており、スポーツマンらしく礼儀正しく、社会性がすこぶる高いのだ。この「社会性が高い」というのは、どんな職種においても重要視される。社会性がないことで、才能を活かしきれていない人を私は数多く見てきた。
それでも努力を続けていれば、才能が社会性を凌駕するケースもある。だが、社会性の低い人間と付き合うのは、なかなか難しい。なぜなら、面白くないからだ。突出した才能を持っていても、社会的な地位があったとしても、人間味がなければ、付き合っていてもつまらない。
皇治選手とは、さまざまな話をした。もともと何人か共通の知人もいたのだが、彼が尼崎に住んでいたこともあると知り、余計に親しみを感じた。カウンターに座っていた、まったく関係のないお客さんが、私たちの会話を聞いて「マジですか!」と興奮して反応し、「誰やねん!」と私が冗談で返すほどに、盛り上がった。
「華のある男」を筆で奏でたいと思うのが、私の仕事である。私の誕生日会には、皇治選手のマネージャー・原くんと一緒に来てくれ、みんなを喜ばせてくれた。その気持ちが、何より嬉しいではないか。 私はその想いを作品という形で皇治選手に返し、もっと光り輝いてほしいと願っている。
秋から創刊されるある媒体で、私が原作を務める漫画がスタートする。他の作品も豪華なラインナップが並ぶ。我々の陣営も、最強の布陣が揃った。その作品の中で、私が愛着をもって生み出したキャラクターを、皇治選手として登場させることになったのだ。
まだ話せないこともあるが、他にも仕掛けていることはある。
結局、突き詰めれば、仕事とは人間関係ではないだろうか。
「あの人とまた仕事がしたい」「みんなでまた情熱を燃やせる仕事場をつくりたい」と思えば、私が誰よりも先に動き、全力で仕事に取り組むのは当然だ。それが世に出たときの喜びは、何者にも代えがたい唯一無二のものとなる。
私自身がそうであるように、何者でもない場所から成り上がっていく人生には、出会いや別れ、喜びも苦しみもあるのは当然だ。
だが、華のある人間は、総じて人間味があって面白い。そこにこそ、ドラマがある。聞き飽きたような人生訓や哲学っぽい話なんて、いらないだろう。ありのままで面白い。ありのままで元気になる。そんな話のほうが、よくないか?
どこまで行くのか、見てみたい──皇治選手には、そう思わせられている。
(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)
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