粛清、個人崇拝、鎖国、そしてサラミ戦術? 冷戦期にソ連の影響下にあった国々の「ミニスターリン」たちの栄枯盛衰

ラーコシ・マーチャーシュ、エンヴェル・ホッジャ、ニコラエ・チャウシェスク……。聞き馴染みのない名前もあるが、彼らは冷戦期の東欧でソ連の指導者であるヨシフ・スターリン(1878〜1953)の権威を笠に着た機会主義者、いわば「ミニスターリン」なのだ。
冷戦下ではスターリン主義を踏襲した指導者が数多くいたというが、情報が遮断されていた時代である。我々は彼らのことをほとんど知らない。
しかし、ブルガリアやハンガリーなど現代日本人が親しみを持つ国もかつては、ミニスターリンたちによって統治されていた。それでは、こうした小独裁者たちは一体、どのような存在だったのだろうか?
「独裁者」と聞いて思い浮かぶのは「個人崇拝」や「言論弾圧」そして「粛清」といった要素だが、20世紀以降の指導者でそれらのイメージの立役者となったのは、やはりアドルフ・ヒトラーやヨシフ・スターリンだろう。
今でも独裁者の代名詞として用いられることの多い彼らだが、とりわけスターリンはこれらの要素を全面的に取り入れ、その発想と実践の総体は後に「スターリン主義」として知られるようになる。そして、冷戦期にソ連の影響下にあった国々の指導者たちはスターリン主義を踏襲し、「ミニスターリン」とも呼べる独裁者が数多く生まれた。
ただ、ひと口に「ミニスターリン」といっても、その人生はさまざまだ。スターリンの教えを忠実に守った者、より過激な独自路線を歩んだ者、スターリン主義に固執しすぎるあまり時代に取り残された者……。
そんな、日本ではあまり知られていない独裁者たちを取り上げた書籍『ミニスターリン列伝:冷戦期東欧の小独裁者達』(パブリブ)が発売された。そこで、著者の木村香織氏へのインタビューを交えながら、知られざるミニスターリンたちの逸話を紹介していきたい(以下、「」内は木村氏のコメント)。
スターリンに忠実だったブルガリア人民共和国の指導者たち
木村氏はハンガリーのブダペスト在住。ロシア科学アカデミー・スラヴ学研究所の研究員として活動しており、専門分野はソ連・東欧史だ。本書の執筆のきっかけはなんだったのだろうか?
「パブリブからお話をいただいたことが直接のきっかけですが、もともと私が大学の博士課程で研究していたテーマが『ハンガリーとユーゴスラビアの国際関係史』で、その内容に本作でも取り上げた、ハンガリーのラーコシ・マーチャーシュという独裁者が深く関わっていたんです。そのため、私のテーマとも合致していると感じ、書いてみたいなと思いました」
本作では、木村氏が「ミニスターリン」と呼ぶにふさわしいと感じた13名の指導者の逸話が収録されている。人選はどのように決めていったのだろうか?
「当初はスターリンが死ぬ1953年までに、彼のやり方に従っていた人々に絞るつもりでした。ただ、いろいろ調べていく中で、スターリンの死後も独裁政権を保とうとしていた人もいっぱいいました。『ミニスターリン』という強い批判を含み得る言葉を使って彼らすべてを紹介するのは乱暴かとも思いましたが、第二次世界大戦後の東欧史を紹介する本にしたいという想いから、全員を紹介することにしました」
先に述べたように、ミニスターリンといってもそれぞれ異なる人生を歩んできたため、木村氏は彼らを大まかな特徴に分けて説明している。まずは「古参ミニスターリン」とされる、ブルガリアのゲオルギー・ディミトロフから取り上げよう。
今でこそヨーグルトのイメージが強いブルガリアだが、第二次大戦終結後からソ連の衛星国「ブルガリア人民共和国」となり、半世紀以上にわたり共産党による一党独裁が敷かれていた。ディミトロフは、その基礎を築いた人物のひとりとして知られる。
「ディミトロフはスターリンと4歳しか年齢が違わず、共産主義運動の草創期からアクティブな活動家でした。彼は第二次大戦後のブルガリアをスターリン的な強権的手法でまとめあげ、大量虐殺にも関わった人物です」
ディミトロフは確かにアクティブな活動家であった。10代から労働組合の活動に精を出し、20歳で政界へ入ると、31歳で史上最年少(当時)の国会議員に当選。ライバル政党の人間を中傷したり、反戦活動の煽動で数度の投獄を経験するなど血の気が多く、ついには当時の政権に対する武装蜂起を主導して失敗。ソ連に亡命し、欠席裁判で死刑判決を受けブルガリアに帰れなくなった。
それからはコミンテルンの庇護の下、約22年間にわたる亡命生活を送ることになるのだが、その間にも1933年にドイツ国会議事堂放火事件の容疑者として逮捕され、弁護士抜きで裁判に挑戦。検察官を務めたナチスのヘルマン・ゲーリングを論破して無罪を勝ち取り、共産主義者の世界で名声を得ると、ソ連でコミンテルンの議長にまで上りつめた。
その後はスターリンの側近のひとりとして大粛清などに携わったのち、第二次大戦終結後の1946年にようやくブルガリアへ帰国。晴れて首相に就任したものの、わずか3年後の1949年に体調を崩し、療養先のモスクワで病死した。スターリンと不仲だったユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーと「バルカン連邦構想」をブチ上げたことで不興を買い、毒殺されたという説も根強くささやかれるが、公式には病死となっている。
そして、その権力基盤は古くからの同志であり、妹婿でもあるヴルコ・チェルヴェンコフへと引き継がれていく。
「チェルヴェンコフについては、とにかくスターリンに忠実で言われたことをそのまま行う、まさにミニスターリンの代表格といったイメージです。彼の娘のインタビュー記事を読んだことがあるのですが、真面目に黙々と業務をこなす人物といった評価をしていました。そのため、『”俺についてこい!”というタイプではなかったのでは?』と思っています」
チェルヴェンコフの治世下ではスターリン主義が忠実に踏襲され、個人崇拝、産業の集団化、政敵の排除といった強権的な政策が推し進められた。しかし、1953年にスターリンが死去すると状況は一変。程なくして権力の座から追いやられることになる。
「サラミ戦術」とは一体? スターリンのもっとも優秀な教え子

このような「ミニスターリンの代表格」としては、木村氏が先に言及したハンガリーのラーコシ・マーチャーシュも含まれる。
「ほかの独裁者たちは労働者階級の出身が多いのですが、ラーコシ(ハンガリー人の姓名の順は日本人と同じ)は比較的裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、当時としてはいい教育を受けていたタイプです。ただ、早くから左翼活動に目覚め、モスクワで学んだ期間も長かった。そして第二次大戦後、ハンガリーを治めるために赤軍と共に帰還するのですが、そこからは自他共に認める『スターリンのもっとも優秀な教え子』としてメキメキ頭角を現していきます」
ラーコシは1919年、20代にしてハンガリー・ソビエト共和国の政権に参画するが、国家そのものがわずか4カ月弱で崩壊したため、ソ連に亡命。コミンテルンで4年ほど活動したのち、共産党の地下組織を指導するためハンガリーに戻ったが1924年に逮捕され、約15年間にわたって投獄される。
共産主義者たちの間で有名な存在となっていたラーコシは、1940年にソ連政府の交渉で「19世紀のハンガリー革命時にロシア帝国軍が奪った革命旗」と引き換えに、ソ連への出国が許された。それからは木村氏が語ったように、第二次大戦終結後に赤軍とともにハンガリーへ帰還し、再結成された共産党のトップへと返り咲いた。
ラーコシ率いる共産党はすぐに政権を奪取できたわけではなかったが、陰謀や策略を用いて政敵を少しずつ排除し、1949年までにはラーコシを絶対的支配者とする一党独裁体制を築いた。のちにこの手法は、ハンガリーの特産品になぞらえて「サラミ戦術」と名付けられた。サラミは一枚一枚薄くスライスしたものを食べる。その一枚一枚削ぎ落としていく様を、一人ひとり政敵を粛清していく手法と掛け合わせたネーミングだ。
晴れて独裁者となったラーコシは、スターリン主義全開の徹底的な恐怖政治を敷いた。個人崇拝、産業の集団化に加え、政敵の粛清、さらに秘密警察による民衆弾圧で数十万人もの人々が投獄された。先に木村氏が述べた「スターリンの最も優秀な教え子」としての腕を存分にふるったわけである。
だが、その狂信者っぷりはソ連指導部をもドン引きさせることになる。スターリンが死去すると徐々に圧力が強まり、徐々に権力を削ぎ落とされていくことになる。今度は自分自身がサラミになったわけだ。そして、1956年にニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行った直後に、政治の表舞台から完全に退場させられた。今日、ラーコシはハンガリーにおいて暴政と抑圧の象徴とされている。
「ラーコシに関しては、ハンガリーでは良い評価をひとつも聞かないくらい嫌われています。先日、ハンガリー革命の記念日に街の様子を見ていたら『ラーコシは毒蛇』といった落書きを見つけて、『今でも嫌われているんだな』と実感しました。個人崇拝や秘密警察に対するトラウマはもちろん、ハンガリー人からは『言論の自由がなかったのが嫌だった』という意見をよく聞きます。ハンガリー人は自分の意見を大事にする気風があるので、やはり『言論が弾圧される社会は良くない』という評価をしていますね」
ルーマニア、アルバニア、東ドイツ……ソ連から脱却したリーダーたち
チェルヴェンコフやラーコシのように、ソ連がスターリン批判に転じたことで政治基盤が揺らいだ例は多い。親分の言うことを忠実に守っていたのに、いきなり梯子を外されるようなものだから納得もできる。しかし、その危機をうまく乗り切り、ソ連への依存から脱却を図った者たちもいる。
「スターリン主義者だった人たちがフルシチョフの路線と対峙して、どう気持ちの整理をつけようかと考えると、少なからず対立も生まれたのかと思います。やはり、国民に嫌われてしまうと、その国ではやっていけないので、ソ連の言うことに100%従うのではなく、少しずつ路線を変えていったわけですね」
ルーマニア人民共和国のゲオルゲ・ゲオルギウ=デジもそのひとりで、ご多分に漏れずスターリン主義に基づいた強権的な統治を行い、ルーマニアを「ソ連のもっとも忠実な衛星国」に仕立て上げたものの、フルシチョフの時代に移ってからはソ連の方針に背いて西側諸国との貿易を推進するなど独自路線を歩んだほか、1956年にはフルシチョフに対し、ルーマニア国内に駐留しているソ連軍の撤退を要求。1958年にこれを達成させるなど一定の功績を残した。
アルバニアのエンヴェル・ホッジャはさらに独特な道を歩んだ。スターリンの熱烈な崇拝者だった彼もまた、強権的な手法を用いて政敵の排除や宗教弾圧などを実施したが、その一方で国民の識字率や農業自給率、医療事情を大幅に改善させたほか、鉄道の敷設や国中の電化を実現させるなど、初期の治世においては、第二次大戦中に荒廃したアルバニアの再建に尽力したといえる。
だが、その自負があったのか、スターリン批判を行ったフルシチョフに対しては猛烈な敵意を示し「修正主義者、反マルクス主義者、敗北主義者」などと公然に非難した。
その結果、1961年にソ連と、ほかのすべてのワルシャワ条約機構加盟国と断交。その後は中国に接近したが、中国が70年代に非共産国家との国交を樹立し始めると中国とも離反。
最終的に「アルバニアは世界で唯一マルクス・レーニン主義国家である」と宣言し、独自の「ホッジャ主義」を打ち出し、事実上の鎖国を断行。死後も、自身の葬儀に外国の首脳を出席させないよう遺言を残すなど、徹底した独自路線を歩んだ。
悪名高い「ベルリンの壁」を建設した東ドイツのウォルター・ウルブリヒトもまた、典型的なスターリン主義者とみなされていたが、彼の場合はスターリンの死と共に立場を一転させたことで政権を延命できた。
結果、60年代に東ドイツは東側諸国の中では政情が安定し、経済も発展したが、これに気を良くしたウルブリヒトは「東ドイツは社会主義国のモデル国家」などと増長するようになり、ソ連の意向に従わなくなっていった。そして最終的に、身内からもソ連からも愛想をつかされ失脚。
ウルブリヒトの後を継いだエーリッヒ・ホーネッカーの時代になると、もはやスターリン主義に基づいた個人崇拝や言論弾圧といった強権的手法はおろか、共産主義そのものの失敗も露呈しつつあった。しかし、ホーネッカーはあくまでイデオロギーにこだわり続けた。木村氏は、彼のような時代に取り残されつつあった指導者を「ネオミニスターリン代表格」という枠組みに含めている。
本稿で触れられるのはここまでだが、『ミニスターリン列伝』には独裁者たちのエピソード以外にも、彼らにまつわる人物や事件などのコラム・データが456ページにわたって収録されている。最後に、木村氏は、こう語ってくれた。
「この本をきっかけに、一般的にはあまり知られていない東欧の歴史に興味を持ってくれたり、若い研究者が新たなフィールドを広げるきっかけになってくれたらとてもうれしいですね」
(取材・文=ゼロ次郎)
【木村香織(きむら・かおり)】
1980年、埼玉県生まれ。法政大学法学部政治学科卒業。2008年、モスクワ大学大学院歴史学部二十世紀の祖国史学科修士課程修了、13年に同大学院南西スラヴ史学科博士課程修了。歴史学博士。ロシア科学アカデミー・スラヴ学研究所研究員。専門は第二次世界大戦後のソ連・東欧史(ハンガリー・ユーゴスラヴィアを中心に)。ハンガリーのブダペスト在住。