テレビの落日とジャーナリズムの危機─テレビスターを殺す怪物の正体
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ありがたいことに2月半ばは、私の誕生日を祝う宴を友人たちが連日開催してくれたのだが、その途中、疲労がたたり、熱が出て、中座させてもらうことがあった。そこで自宅で休養を取りつつ、久しぶりにテレビをつけてみたのだが、そこである寂しさに襲われたのである。なぜなら、存在すべき主人公がいなかったからだ。
週刊文春の綻び
私にとって、バラエティ番組の主人公といえば、ダウンタウンであり、中居正広氏であった。
すまないが、是々非々で論じるならば、吉本芸人に降って湧いたオンラインカジノ問題によって、自粛を強いられた芸人がいたことは仕方ないことだと思う。捜査当局が動いて、今後、時効のケースを除き、刑事事件になる可能性があるからだ。
ちなみに筆者は、ここに至るまでの過程を他の人よりも知っている。どういうルートで情報が世に出たのか。なぜ、このタイミングで問題が弾けたのか。
誰が「インフォーマ」を生み出したと思っているのだ。人脈を駆使して情報を集めたので、ことの経緯は把握できている。ただ、興味本位やネットで「いいね」やフォロワーを獲得したくて調べているわけでもない。すまんが、承認欲求強めのネット民たちの思考と同じにしないでもらいたい。
「インフォーマ」の主人公、情報屋である木原慶次郎は言ってなかったか。「クライアントから依頼があるからや」と。
私は、それを実社会で実践しているだけだ。木原の仕事は、フィクションではない。だからこそ、『インフォーマ』という作品が話題になったのではないか。非現実な設定でヒューマンストーリーやクライムノベルを描けるほど、世の中は甘くない。
今の時代、ある意図をもって、人を貶めることはそこまで難しいことではないだろう。そこに需要があるのも確かだ。特にネット民は人の不幸に飢えている。そこに、有名人のスキャンダルを投下すれば、快楽すら味わえるだろう。それも正義側の立場としてだ。私も生身の人間である。特定の人物に頭に来ることだってある。そいつを不幸に突き落とすトリガーを引いてやろうかと思う瞬間だってある。
だが、絶対にやらない。私自身のプライドが許さないからだ。そんなことをするのは、卑怯だと思うからだ。他人が行なう卑怯な行為なんてどうでもよい。だが、自分自身が卑怯な行為をするくらいなら、私は死んだほうがいいと思って生きている。
極論を言えば、人生なんて、いつまで続くかわからないのだ。だったら、自分自身にカッコ悪い生き方だけはしたくない。それは、何も特別なことではないだろう。
そして、いつでも困っている人の側に立って、彼らをとことん追い詰めるようとする社会に対して、「それは、おかしいんとちゃうんかい」と言っていたいのだ。
それは、リスクを伴うことでもある。自身に対して、誹謗中傷もあるかもしれない。しかし私はそういう類いに一切、興味がない。
例えば、大勢が松本人志氏や中居正広氏を責め立てたとき――ジャニーズ問題でもしかりであるが――、彼らを擁護するコメントを私がSNSに投稿すると、一部のネット民たちから、さまざまなコメントが寄せられた。だが、そんな者たちよ、すまんが私は文章のプロである。軽く腕を振るえば、いつでも自分に注目を集めさせることができてしまう。これも私の文才がもたらした罪なのだろう。でも、たびたびすまないのだが、寄せられるコメントのほとんどを読んであげられない。
それには理由もあるので、怒らずに聞いてほしい。駄文がこちらに伝染るからだ。下手くそな文章を読むと、下手が感染ってしまうのである。物書きの世界において最上位に君臨するのは小説家である。私にはその自負がある。
小説を書くためには、そもそもジャンルを問わず、何でも書けなくてはならない。たまに小説家の中には、痛いエッセイの書き手もいるが、怒らないでほしい、それはそもそも小説が下手なだけなのだ。ユーモアなくして、物事を客観視する能力なくして、小説もエッセイも書くことなんてできない。偏見ではない。事実だ。
人の不幸を喜ぶネット民は、悪口しか書けないのではないか。そんな駄文は、読むだけ無駄だ。私を責めたかったのかもしれないが、まずは文章力を磨いてきてくれ。お気の毒様である。
テレビをつまらなくさせたのは……
果たして、ジャーナリズムとは何なのか。現状を見ていると、弱い者イジメの先導者になっていないか。いつから、ネット民に話題にしてもらい、PVを稼ぐための情報を報じるのがジャーナリズムの役目になったのか。有名人の過去をほじくり返して、その人間が再生できなくなるほど燃やし尽くすのが、記者の仕事だというのか。
私には、いまだにわからないのだ。ジャニーズ事務所が解体しなければならなかった理由も、松本人志氏や中居正広氏がテレビから消えなければならなかった理由も、フジテレビがあそこまで責められている理由もだ。
もちろん問題はあっただろう。だが、彼らは社会から抹殺されるほどの許されざる罪を犯したのか。その客観的証明はなされたのか。バカの反論はいらない。私は聖人君子ではないので、いちいち、ここでの言葉遣いを気にしないでほしい。
ここでは、過激な言葉を使っているが、実社会では人並み以上にいろいろなことに気を使い、真っ直ぐ生きている。だからこそ率直に思うのだ。週刊誌がテレビなどで話題の有名人を狙いを絞り、司法機関が捜査すらしていないことをほじくり出し、火をつけて、ネットの波に乗せて、その者の不幸を増幅させ、そして、断罪する。それが社会的に本当に正しく、求められているというのならば、司法の仕事とは何なのか。
そんなことが罷り通り、次々とテレビスターが週刊誌のターゲットにされ、消されていけば、テレビはますます衰退するだけであることは明白ではないか。履き違えてはいけないのは、テレビがつまらなくなったのではないということだ。テレビをつまらなくさせたのは、そこに過剰なコンプラ意識や潔癖性を求める世論なのである。
私は、そうした記事が必ずしも署名入りでなければならないとは思わない。組織として発表するというなら、執筆者の個人名を明示する必要もないだろう。だが、記者としては、自分の書いた原稿に責任は持つべきではないか。
切った張ったの原稿を書くとき、例えば、ジャニーズ問題、松本人志問題、中居正広問題の記事を差し込んできたとき、ペンを持つ者の矜持として、自分の名前を記事の最後に署名することはできるのか。そんなことを自分に問うたことはあったのか。少なくとも、私は戦う時は1人でやってきた。ペンを握って25年、プロになって10年。批判するときも批判されるときも、誰の助けてもらったこともない。組織や第三者に守られてきたこともない。すべて自分1人で戦ってきた。だからこそ、書くことへの気概は他の書き手とは違うと思っている。
世の中の風潮は変わらないだろう。しかし、私は成長こそすれ、その根底は何も変わらない。誰かひとりからでも「よく言ってくれた」という原稿を書いていきたいと思っている。
人の不幸を楽しむことに、いい加減飽きてもいいのではないか。
(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)
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