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ミャンマー大地震でも流布 エリートが「フェイクニュース」を“最も重大な危機”と叫ぶ理由

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(写真:Getty Imagesより)

「そのニュース必要か?」

 世界経済フォーラムが毎年発行している「グローバルリスク報告書」の2025年版は、今後2年間で世界が直面する最も重大なリスクは「誤報と偽情報」だと報告しました。これは各国の政策立案者やさまざまな業界のリーダー、研究者などから成る900人以上を対象としたアンケート結果で、少なくとも世界の“有識者”たちは「誤報と偽情報」を極めて深刻な問題であると考えていることを示します。

万博が盛り上がらない本当の理由

 ここで“有識者”という含みのある記述をしたのは、そうした「特権的な立場にいる人々の見解」は、そもそも信用ならない、と感じる人が近年は少なくないと筆者は考えているためです。この報告書が「誤報と偽情報」と定義する事象は私たちの社会では一般的に「フェイクニュース」と呼ばれますが、実際、これが私たちにとって「最も」重大なリスクだと捉える人はどれくらいいるのでしょう(例えば、コロナ禍では「トイレットペーパーが不足する」というデマが流布し、実際に買い溜めした人もいるはずですが、それは「最も」重大な被害だったでしょうか)。

 この報告書には「今後10年間で最も重大なリスク」という項目もあり、それは異常気象です。夏の酷暑、春や秋の短さ、農作物や漁獲高への影響など、具体的な弊害が日々の生活で実感できるため、筆者はこの提言を素朴に受け入れられます。しかしフェイクニュースがもたらす弊害は、突き詰めると「民主主義の崩壊」とされますが、それがどのような不都合を突きつけるかを想像するのも、私たちに差し迫った危機なのだという共通認識を形成するのも、なかなか難しいと考えます。とても抽象的だし、いかにもお高くとまった政治家や学者、メディア人が言いそうな表現で、自分と地続きの問題だと感じるのを阻む要素が満載であるためです。

 本連載は今回から数回に渡って、エリートたちがフェイクニュースを問題視する理由を読み解くこと、ファクトチェックや法規制、メディアリテラシー教育といった世界中で進む「フェイクニュース対策」がどのような状況にあるかを確認すること、そしてそうした現状整理を踏まえて「私たちが今見据えるべき問い」の明確化を目標として、更新していきます。

なぜ、「正しい情報」にこだわらなければならないのか

 災害や戦争、政変などの社会的なインパクトの大きい出来事が起きるたびにフェイクニュースが注目を集めます。

 3月に起きたミャンマーの大地震でもフェイクニュースが飛び交いました。特に有名なのは「地震後のミャンマー」と称して、大通りに巨大な地割れが生じている都市部を空撮した動画です。NHKの調査によって生成AIでつくられた偽情報だと判明しましたが、3月末までにXで300万回以上閲覧され、インドネシアやロシアでは実際の被災地の様子だと報じたメディアもありました。米国のブルッキングス研究所のダレル・ウエスト研究員は、インプレッションを稼いで広告収入を得るための偽情報だったとの予測を示しています。

 日本でも震災のたびにこのようなフェイクニュースが氾濫するのは常態化しており、最も知られた事例は2016年の熊本地震の際に流布した「ライオン脱走」の一件でしょう。市街地を歩くライオンの画像とともに「おいふざけんな、地震のせいでうちの近くの動物園からライオンが放たれたんだが、熊本」と綴られたツイートは1時間で2万回以上リツイートされ、現地の動物園には100件以上の問い合わせがありました(ツイート主は後日、偽計業務妨害罪で逮捕されました)。

 こうした偽情報の問題点は何でしょうか。人々の不安をいたずらに増大させること、さらには災害時の現地状況を把握しづらくしたり、適切な救助や支援の妨げになったりすることも挙げられそうです。とはいえ、あまりにも頻発するため、インターネットやSNSが普及した「代価」と考え、煩わしく思いながらも日常の風景として受け入れている人が少なくないのではないでしょうか。乗用車というテクノロジーが普及した「代価」として日本社会では年間3000人近くが交通事故で命を落としますが、これを糾弾する人が多くないのと同じように。

 これはつまり、報道やSNSの情報と接する際に思慮深く振る舞えば、フェイクニュースが氾濫する情報環境となんとか折り合いをつけて暮らしていけると私たちの多くが考えていることを示します。事実、筆者自身もある程度の危惧を持ちながらも、同様の認識を抱いていました。しかし、筆者が勤務する大学である学生から投げかけられた質問をきっかけに、私たちを取り囲む現状がいかに難儀かつ危機的であるかを意識するようになりました。

 学生は言います。「正しくない情報が流布するのは確かに問題だ。ミャンマーの地割れの画像を見て心を痛めた人もいるだろう。しかし、偽の画像によって多くの人がミャンマーに注目したのも事実だ。募金や救援物資などの支援が活性化することに繋がれば、結果として偽情報が人々を助けたとも言えないだろうか」。

 補足すべきこととして、この学生は2021年の米国連邦議会襲撃事件においてドナルド・トランプの根拠のないツイートが暴徒たちに多大な影響を与えた事例は「容認できない」とも述べています。きわめて素朴に、「虚偽の情報であっても、良い結果につながるものならば許容される部分があってもよいのではないか」と感じているわけです。

 これは大いにリスクをはらんだ考え方です。まず第一に、現在の情報環境において「フェイクニュースと折り合いをつけられる」という認識は錯覚です。フェイクニュースはその量・質ともに私たちの認知能力と情報処理能力で対処できる領域を超えており、つまり「良い結果につながるフェイクニュース」を識別できるという考え方は避けるべきです。

 そして最も大切なのは、ある種のフェイクニュースに価値を見出す行為は、相対的に「正しい情報」の価値を低下させること。これを換言すると、なぜ私たちは「正しい情報」にこだわらなければならないのか、という問いに行き着きます。そしてこの問いに、私たちの岐路が見出せると考えます。

フェイクニュースは私たちの暮らしの「前提」を切り崩す

 私たちのような自由民主主義が機能している国家で生きる者は、「意見の違う者同士が『共通の現実』を前提にして議論し、合意に至る」というシステムを前提として社会を運営しています。そして私たちは伝統的に、この「共通の現実」を成立させるために「正しい情報」を不可欠なものと捉えてきました。

 確かに、「正しい情報」とは何か、という議論の余地は多大にあります。インターネットが大衆化する20世紀末までは、マスコミが情報を取捨選別し、人々に一方通行的に報道を行うという構造がありました。この時代では、マスコミの報道を「正しい情報」ということにして私たちは暮らしていました。報道関係者による誤報や捏造はありましたし、#MeTooムーブメントやジャニーズの性加害問題のように、マスコミが情報を独占的に管理することで表面化しづらい問題があったのは事実で、その構造が問題含みだったのは明らかです。しかし、職業的な訓練を受けた人々がフィルターの役割を果たすことで、私たちが自発的な意思決定をするために必要最低限の情報が共有され、偽情報が抑制されていたことも否定できない側面なのです。

 インターネットの大衆化とSNSの普及は確かに情報発信の革命でした。誰もが情報発信者になれることで、多様な議論が積み重ねられ、世界はより良い場所になるという楽観論が当初は根強く語られました(例えば、2009年に上海を訪問したバラク・オバマは「情報が自由に流れれば流れるほど、社会は強靭になる」と中国政府首脳陣に語っています。いま彼は同じことが言えるでしょうか)。

 インターネットの大衆化から30年余りが経過して私たちが学んだのは、コロナ禍のインフォデミックが象徴するように、情報があまりにも多すぎると「共通の現実」を見据えることができない、という端的な事実です。デロイト トーマツのレポートによると、コロナ禍における人類の情報伝達力は、コロナ禍の約100年前、スペイン風邪流行時の150万倍だといいます。これほどの情報量を前にして私たち一人ひとりが適切な情報を取捨選別して、理性的な判断ができるかといえば、それは極めて難しいと言わざるを得ません。

 ハーバード大学の心理学教授スティーブン・ピンカーは「わたしたちが頼りにしている認知能力は、従来の伝統社会ではうまく機能したかもしれないが、今ではバグだらけだと思ったほうがいい」と言います。ピンカーはその認知能力の例として「自分の経験というごく限られたものを一般化し、固定観念で推論し、ある集団の代表的な特徴を、そこに属する個々人に例外なく当てはめ」るもの、と続けます(いずれも『21世紀の啓蒙』[草思社, 2019]から引用)。

 そういった生き物である私たちがなんとか社会生活を成立させるためのシステムのひとつが民主主義です。もちろん民主主義は間違いを犯しますが、長期的に見ればそれを克服し、より多くの人々の幸福に寄与してきたことは統計的な事実です。そして、そのためには私たちの意思決定が「正しい情報」に基づいているという前提が不可欠でした。もしも政治的に異なる立場をとる人々が、自分とは異なる現実を見据えていたとしたら、議論どころか理解することすら不可能になり、その時点で民主主義は崩壊します。だからこそ、フェイクニュースをエリートたちは危険視するのです。

 しかし、先の学生の質問を極度に拡大解釈してみると、別の道も考えられます。正確な情報ではなくとも、人々が適切な行動を取れる架空の情報を提供し、社会の秩序を維持するというシステムです。歴史的にはファシズムやスターリニズムはそうしたアプローチで社会を構築しようとしたことが知られています。20世紀にそうしたシステムが失敗した理由は明快です。当時の情報統制技術では一人ひとりに最適化された架空の情報を伝達することは難しかったし、最適化を行うためのアルゴリズムも存在しなかったためです。しかしここで問題になるのは、まるで神のようなそうした所作を実現する能力を、それほど遠くない未来にAIが獲得するのが確実であることです。

 つまりいま問われているのは、私たちはどう生きるか、ということなのです。それが不都合だったり、噛み砕くのに労力がかかったりするものでも、世界で起きていることを正しく認識し、自分の意志で自分の生き方を決めるのか。あるいは自身に最適化された真実と見分けのつかないフェイクのなかで、自分の意志で決断していると錯覚しながら生きるのか。ここで強調すべきは、どちらの道も実現可能であり、そこに貴賤はないということです。

 筆者は現状、民主主義を肯定する立場をとるため、フェイクニュースを危険視する立場です。ここでの懸念は、世界中で取り組まれているフェイクニュース対策では情報環境の汚染に対処しきれないことを示唆する研究結果が数多く発表されている点です。次回はそうした対策の現状と問題点を解説していきます。

(文=小神野真弘/ジャーナリスト)

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小神野真弘

ジャーナリスト。日本大学藝術学部、ニューヨーク市立大学ジャーナリズム大学院修了。朝日新聞出版、メイル&ガーディアン紙(南ア)勤務等を経てフリー。貧困や薬物汚染等の社会問題、多文化共生の問題などを中心に取材を行う。著書に「SLUM 世界のスラム街探訪」「アジアの人々が見た太平洋戦争」「ヨハネスブルグ・リポート」(共に彩図社刊)等がある。

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小神野真弘
最終更新:2025/05/04 22:00