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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送談義27

『豊臣兄弟!』走れ秀吉! 信長の死を隠し通した「中国大返し」でカリスマを見せつけた毛利勢との調略と講和の神業交渉

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『豊臣兄弟!』走れ秀吉! 信長の死を隠し通した「中国大返し」でカリスマを見せつけた毛利勢との調略と講和の神業交渉の画像1
『豊臣兄弟!』に出演する池松壮亮、仲野太賀、要潤、松下洸平(写真:Getty Imagesより)

 前回(第27回)「本能寺の変」では、強烈な存在感を放ってきた小栗旬さん演じる織田信長がついに討ち死にしました。思えば本作における信長には「われこそは第六天魔王である!」などの宣言や「あの石のことを、私(信長)だと思ってあがめよ」といったキテレツ発言がなく、自分が帰宅したら侍女たちがいなかったので皆殺しにしたという「竹生島参詣事件」といった超問題行動もありません。

斎藤利三を選んだ光秀たちの三角関係

 強がるし、すぐにキレるけど、危機に晒されたり、強いストレスを受けると、過去のトラウマやら妄想が具現化して見えてしまう――そして森乱(市川團子さん)から「お気を……確かに」と気遣われる「強くて弱い」信長の像は新鮮でしたね。

 さて次回(第28回)は「急げ!秀吉」と題し、「信長を討った光秀(要潤)は家臣の斎藤利三(内藤剛志)に、小一郎(仲野太賀)を捕らえるよう指示。京に潜伏する小一郎は、備中の秀吉(池松壮亮)と、家族のいる長浜に急を知らせるとともに、畿内周辺の諸将が明智方につかないよう足止めをはかる。事態を知った家康(松下洸平)、勝家(山口馬木也)らもそれぞれの思惑で動く中、秀吉は信長の生存を信じ、毛利との和睦を急ぐ。そしてついに“中国大返し”が始まる!!」という内容だそうです。

「あらすじ」を見るだけでも、「うまいこと史実を料理したなぁ」という印象ですね。というのも、史実に見る秀吉・秀長兄弟は、信長が京都から進軍してくるのを、彼らが水攻め中の備中高松城の側で待ち受けていたとされるからです。

 しかし、『豊臣兄弟!』では秀長が主人公で、主人公が動かないドラマはドラマとして成り立ちませんから、秀吉が秀長を使者に立てて、備中高松から京都に向かわせ、信長に進軍をお願いするという形を取ったのでしょう。

 さらに秀吉は京都にいる秀長からの情報が届いていないため、信長が「本能寺の変」で明智光秀の手勢に急襲されて自害した事実を知らないという設定もポイントです。

 ドラマの秀吉はガチの信長信者で、誰よりも信長のことが好きですから、「信長様はかならず生きている! お助けせねば!」という希望にすがって、猛スピードで中国地方から京都まで引き返す……というエモさ爆発の展開が期待できるのでした。「走れメロス」としての秀吉ですな。

 しかし、史実に見る秀吉の「中国大返し」は、ドラマで描かれるであろう内容とはだいぶ異なる印象なのです。

 秀吉率いる軍勢の大半は騎馬兵ではなく、歩兵なのですが、その数万にも及ぶ軍勢がほとんど不眠不休で爆走した結果、わずか3日間で備中高松から京都までの200キロを踏破!――という「中国大返し」のイメージは、江戸時代の『太閤記』などの軍記物による創作。まったく史実とは異なるのですね。

 史実の秀吉軍の移動速度は1日20~30キロ程度。途中でしっかり2日を休憩に充てているので、移動には7~8日もかけています。現代人が、重たい甲冑姿で1日数十キロも歩くのは至難の業ですが、当時の訓練された歩兵であれば、これはごく平均的な速さだったとか。

 しかし、京都山崎に布陣していた明智軍が秀吉軍の戻りの速さに驚愕させられたのも事実でした。その理由をお話する前に、少し時間を巻き戻して解説を加えたいと思います。

「本能寺の変」には黒幕などがいなかった……とこれまでも述べてきましたが、それは信長を討った後に、明智光秀が諸将に書き送った手紙からも明らかなのですね。

 この当時の織田信長は、嫡男・信忠(ドラマでは小関裕太さん)に家督を譲っていましたが、実質的なトップであったことは間違いありません。その信長が京都・本能寺にほとんど供も連れずに入っただけでなく、信忠まで予定を変更し、京都滞在を決めたのが天正10年(1582年)6月1日のこと。

 おそらく「本能寺の変」の計画が明智光秀とその重臣・斎藤利三たちの間で動き始めたのはそれからで、当初、織田父子暗殺に成功した後のことまではあまり考えていなかったのではないかとも想像されてしまうのでした。

 同月3日、本当に信長と信忠という織田家のトップを討ち取ることができてしまってから、ようやく光秀は親戚にあたる細川藤孝や、近隣地域のキーパーソンである筒井順慶などに手紙を書いて、自分への協力を要請しているのです。しかし寝耳に水すぎる信長の死と、織田家の与力頭(筆頭家老)である明智光秀の謀反の事実に動転した重臣たちの同意は得られなかったという事実は見逃せません。

 この時、光秀は信長が蓄えてきた安土城の金塊などの財宝を織田家中の主要人物や朝廷にもじゃんじゃんバラ撒きしていたようですが(フロイス『日本史』など)、まぁ金だけで済む問題ではないですよね。

 史実の明智光秀は集金が得意で優秀な官僚であり、軍人でもありましたが、往々にして金がすべての「銭ゲバ」タイプで、それゆえに行動も読みやすい男。だから信長にとっては使いやすく、それで成り上がれた「だけ」の男だった気がします。

場当たり的な明智光秀の半生

 創作物の明智光秀は織田家中の良心代表、そして知性派として描かれることが多いのですが、史実の光秀の行動は――とくに「本能寺の変」前後の行動はあまりに場当たり式で、もしかしたら「本能寺の変」で本当に信長を討てたことに一番驚いたのは、光秀本人だったのではとも想像できる一幕です。つまりすべては彼の役職であった「与力頭(=プロジェクトマネージャー)に求められる能力を上回るものではなかった、ということですね。

 ドラマの明智光秀も前将軍・足利義昭(尾上右近さん)に手紙を書いて「信長を討つべきか」の相談をしていたようですが、義昭からの返答はそんな物騒な計画に自分を巻き込まないでくれ(要旨)という突き放しと保身でしかありませんでした。それに絶望し、逆ギレした(?)光秀はほとんど衝動的に、自分が秘めてきた信長殺害願望を「信長討つべし」と後押ししてくれた信澄(緒形敦さん)のそそのかしに乗ってしまった……という描かれ方だった気がします。

 史実の明智光秀も深刻な準備不足のまま、中国からとんぼ返りしてきた秀吉との「山崎の合戦」に突入。最後まで明智勢はまともに態勢を立て直せず、あえなく敗戦してしまったのでした。

 しかし史実の秀吉の凄まじい「速さ」とは決して、移動速度ではないことはお話したとおり。何がそんなに早かったのか……といえば、それは毛利勢との講和速度だったのです。

 史実の秀吉は、信長が6月3日、明智勢に討たれて京都で死亡したという情報を、本来ならば、その信長が京都から備中高松まで進軍してくるのをお迎えする準備のために用意した独自の情報網から、誰より早く掴むことに成功していました。

 ドラマでは明智勢が毛利に情報を流し、秀吉を挟み撃ちさせようと企むという展開になるようですが、史実の秀吉は明智対策として実に巧妙な先手を打っていました。具体的には京都~中国地方の要所の領主たちを調略し、毛利勢にも「本能寺の変」の情報を漏らさなかったのです。そして信長がすでに死んでいることは百も承知の上で、毛利勢との講和に挑んだのでした。

 この時、すでに毛利勢はかなり劣勢で、備中高松城を挟んで大軍を率いる信長との全軍衝突なんて事態になれば、滅亡も避けられぬ状態でした。一触即発の危険が迫っていた中、秀吉から突然の講和が持ちかけられ、その条件も備中高松城の城主・清水宗治の切腹で済むとなれば、毛利勢が乗ってこないハズがなかったのですね。

 とはいえ早くても1カ月、通常なら数カ月はかかるであろうこの手の交渉を、秀吉はわずか1日でまとめてしまったのです。これは素直にすごいというしかありません。

 6月2日に「本能寺の変」があって、それを秀吉たちが知ったのが翌・3日。なのに4日には毛利家との交渉が成立、同日中に高松城主・清水宗治も切腹。

 宗治の切腹と引き換えに、同時期に他城を秀吉が攻めた時の通例であれば皆殺しにされていたであろう清水宗治の家族や家臣たち、城内の数千もの領民たちが助命されているのも、毛利勢にすぐに首を縦に振らせるための巧みな条件でした。これらすべてが秀吉の「中国大返し」における脅威のスピード感の正体であり、明智勢を驚愕させた本当の理由なのです。

 さきほど進軍の平均速度は当時の強行軍としては標準レベルだったと説明しましたが、この時も、いかにして秀吉が明智勢の度肝を抜こうとしていたかが分かる1日があります。秀吉の「中国大返し」は6月5日にはじまり、この日の移動速度は約20キロ。つまり平均的進軍ペースだったのですが、大雨だった2日目の6日に限って、秀吉は1日で備前沼(現在の岡山県岡山市東区沼)から姫路城まで約78キロも移動してみせたのですね。これも報告を受けた明智勢を焦らせるためでしょう。

 その次の7日と8日は姫路城で休憩。歩兵たちを休ませ、秀吉・秀長たち幹部たちは軍事会議を行い、9日以降は1日あたり20-30キロという平均的なペースで、明智勢が布陣している京都山崎まで引き返しているので、ペース配分が上手いという印象です。

 また、ドラマでは秀吉・秀長の「人たらし」ぶりが何度も強調されますが、史実の秀吉も人間心理の虚をつくのが非常にうまかったことが想像できるのです。当時の織田家は、いうなれば一代で組織を発展させた会長(信長)と、社長(信忠)のカリスマに支えられた「トップこそが一番重要なベンチャー組織」にすぎず、「トップが入れ替わってもなんとかなる老舗企業」――いわゆる現代のJTCのようにはなれていませんでした。

 それなのにトップから信頼されているという理由ひとつで組織の上層部にいた明智光秀が、突然、そのトップと入れ替わろうとしてもどだい無理。共感など集まりません。それとは逆に、従来のトップとは違うタイプのカリスマがやってきたらどうでしょう? そしてじわじわと段取りを踏みながら、ガンコな有力者たちも懐柔していけたのなら、結末は別になっていたはずですし、実際に秀吉という男はそうさせてしまいました。

 秀吉による「中国大返し」は、彼の鮮烈なカリスマ性をあますことなく世間と織田家中に知らしめる大きなきっかけとなりました。もちろん「中国大返し」の大成功は秀吉本人だけでなく、その弟・秀長、そして黒田官兵衛などの「軍師」が有能だった結果でしょう。しかし、史実ベースで「本能寺の変」から「中国大返し」あたりの秀吉・光秀の行動を見直していくと、ある意味、ドラマよりもドラマティックな人間模様がうかがえる気がするのです。

「本能寺の変」の黒幕は…

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『エリザベート~神の手を持つ王女~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

X:@horiehiroki

堀江宏樹
最終更新:2026/07/19 12:00