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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送談義41

『豊臣兄弟!』京都人への“ガス抜き的”茶会・北野大茶湯は参加人数激少&大爆死説の歴史的真相

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『豊臣兄弟! 完結編』(NHK出版)

 前回(第41回)の『豊臣兄弟!』は、実際はそんなに「いい話」とはいえない史実を、秀長(仲野太賀さん)にがんばらせて「いい話」にまとめあげるという手腕が光りました。すったもんだの末に「豊臣兄弟」への臣従を決めた家康(松下洸平さん)と石川数正(迫田孝也さん)の再会も描かれ、最終回っぽい充実感すらありましたね。

秀長暗殺計画の史実性

 次回は「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」と題し、有名なわりに謎が多い秀吉主催の「イベント」を取り上げるようです。

 あらすじは以下のとおり。

「秀吉(池松壮亮)が普請させた京の聚楽第が完成。秀次(山田涼介)は、その祝いに盛大な茶会を開くことを提案する。天下一統も道半ばのなか時期尚早だと秀長(仲野太賀)は反対するが、秀吉は利休(吉岡秀隆)に命じ、大名も商人も百姓も参加できる大茶会を北野で催すと決める。茶会は盛況となるが、会場でキリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が! さらに佐々成政(白洲迅)が治める肥後で大規模な一揆が勃発し…」とあります。

 問題のイベント「北野大茶湯」が開催されたのは、天正15年(1587年)10月1日のこと。宿敵・家康も配下に組み込み、京都市中に大豪邸「聚楽第」も完成したこの時期は、秀吉の人生でもっとも充実した日々だったことは間違いありません。

 史実の秀吉は何かの節目に大規模な茶会を開催しており、天正13年(1585年)には、旧主・信長の息子である織田信雄のを臣従させたことを祝し、武士たちを招いた「大坂城茶会」、さらに天正14年(1586年)には、京都御所で正親町天皇以下、朝廷の重鎮たちを対象とした「禁中茶会」を執り行っています。

 ここで改めて考えたいのは、なぜ「聚楽第の完成」が、「茶の湯の趣味がある者なら誰でも身分に関係なく参加できる」という触れ込みの、ハッキリいってしまえば庶民「も」対象の北野大茶湯に関係しているのか……という問題です。

 聚楽第は場所的には平安時代の大内裏――御所があった場所に秀吉が割り込んで建造した邸宅でした。いかにも伝統と格式を重んじる京都人らしい対応ですが、この大内裏跡は戦国時代でも宅地などにはならず、荒れ地のまま放置されて「内野」と呼ばれていたのです。そして天正13年11月29日(1586年1月18日)の「天正大地震」までは平安時代に遡る最後の建物として、神祇官の官庁が建っていたらしいのですね。

 秀吉が聚楽第の建築工事を始めたのが、その翌年・天正14年(1586年)のこと。神祇官官庁倒壊と聚楽第工事開始の因果関係は不明ですが、少なくとも京都人が世代を超えて大事にしてきた土地の上に大邸宅を築かせた秀吉に対し、多くの人々が眉をひそめたことでしょう。

――ということで、秀吉に反感を募らせているだろう京都人たちの感情を和らげ、ガス抜きするためのイベントが、この「関白殿下」こと豊臣秀吉から献茶のおもてなしを受けられる(かもしれない)イベント・北野大茶湯だったのではないか、と筆者には想像されるのです。

 しかしここでも秀吉の子どもじみた見せびらかし趣味は止まらず、メイン会場となった北野天満宮の拝殿には秀吉ご自慢の名物茶器、そして「黄金の茶室」が飾り付けられていたそうです。まぁ、これも秀吉からすれば「おもてなし」のつもりだったのかもしれませんが……。

 庶民「も」参加できるとされた北野大茶湯は、幅広い地区に高札(=立てふだ)を出して、客寄せが試みられたといわれます。江戸時代初期に医師・小瀬甫庵の手でまとめられた『太閤記』では開催の約2カ月前の8月2日、「五畿七道」にまで高札がお目見えとありますが、他の資料には7月末に京都市内・五条などに高札が登場し、「10月1日から10日間、北野の森で、秀吉が名物を数寄者に公開すること」が宣言されました。

 ここで注目すべきは、参加者が「釜・釣瓶・呑物を持参」という運営からの指示です。つまり秀吉たちが「おもてなし」することはするけど、そのためにお客は茶器から抹茶などまで一式をそろえた上で京都・北野天満宮にやって来なければダメだったのでした。

 茶道具がなければ代用品でもよく、茶は安価な「こがし」――高価な茶葉の代理品でもよいとまで指示していますが、それだけで参加へのハードルを下げられると思っていたのでしょうか。

史実にバラつきがある茶会の本当の参加者人数は?

 随分と敷居の高いファンミーティングといった印象ですが、注目する茶会当日の参加者については「吉田神道」の神職・吉田兼見の日記『兼見卿記』によると803人。

 そして本業が春日大社の神職で奈良・春日大社の神職で、後年、奈良を代表する茶人となったものの、本業が春日大社の神職の久保権大夫(利世)という人物による茶書録『長闇堂記(ちょうあんどうき)』によると、わずかに数百人……と、ずいぶん人数に開きがあるのが面白いところなのです。

 しかし詳しく見ていくと、彼らの主張は矛盾しているわけでもないようなのですね。久保の『長闇堂記』そして吉田兼見の『兼見卿記』によると、秀吉(たち)から「おもてなし」を受けたい人はクジを引かされたそうです。

 実際にこの「おもてなし」イベントに参加した吉田兼見によると、希望者は8人1組になって、番号1~4のクジを引きます。それで出た数字が1なら秀吉、2が利休、3が津田宗及、4が今井宗久という番号にふりわけられ、それぞれの「茶人」から「おもてなし」が受けられたのだとか。兼見が引いたのは4番のクジで、今井宗久の席に案内されたとのことですが、秀吉に当たらなかったのは運がよかったのか悪かったのか……。

 というのも、茶器マニアの秀吉が、客が持ってきた茶器を取り上げる「名物狩り」を行うのでは、と戦々恐々とする参加者の姿が『長闇堂記』に記されているからです。久保たちの心配は杞憂に終わりましたが……。

 ちなみにこの久保による『長闇堂記』には、参加者が「数百人」で、吉田兼見のいう「803人」とは開きがある事実も検証すると、実は矛盾していないのです。800人の参加者を、秀吉を含む4人の「茶人」で4等分して接客したことは確かなようです。たとすれば、つまり、久保が目撃した「数百人(約200人)」というのは、彼自身が並んだクジの列、あるいは各茶人に割り振られた秀吉の席の人数を指していると考えれば、見事に計算が合うのでした。

 それより注目すべきは「茶人」たちの接客のスピードです。『長闇堂記』によると、秀吉が「おもてなし」をスタートさせたのは「朝五ツ過ぎ」(午前8時頃)。そこから「午刻(11〜13時)」に「御茶湯」が終了という吉田兼見の記述を採用してみると、早くて3時間、ゆっくりでも5時間のうちに約200名をさばいたという試算となるわけです。つまり1組あたりの接客時間は約7〜12分。一人当たりの接客時間は1分程度、長くて2分未満です。つまり秀吉と庶民たちは、現在のアイドルによる「握手会」――よりは長いにせよ、「お渡し会」程度のふれあいしかできなかったようです。

 さらに興味深いことに、それから10日間続くという触れ込みだった北野大茶湯は初日の1日でなぜか早期終了しています。ドラマでは秀吉が出した「キリシタン追放令」に対する抗議代わりの刃傷沙汰が発生したとか、九州・肥後(現在の熊本県)で大規模一揆が発生し、その領主は秀吉自ら人選して派遣した佐々成政だったので、対応に追われた……などの複合説を採用しているようですが、このいずれもが根拠としては薄いといわざるをえません。

 茶会では多くの茶人たちが自分で思い思いの簡易茶室を作り、そこで「おもてなし」を行っていたので、秀吉は自分の「おもてなし」が終わると、そういう簡易茶室こと「茶屋」が立ち並んでいる「北野松原」を一カ所残らず見て回ったという記録もあり(『長闇堂記』)、史実で何か事件が発生していたとはとても思えません。

『多聞院日記』の著者――奈良・興福寺の僧侶による聞き書きによると、当日「松原」にあった「茶屋」の数は、なんと1500以上。この1500の「茶屋」が「松原」に集まったという時点で、北野大茶湯はイベントとして大成功だったのではないでしょうか。ちなみに当日は秀吉の弟・秀長も参加しており(『兼見卿記』)、おそらく秀吉のために熱心に集客に努めたような気がします。

 またドラマでは肥後の一揆が取り上げられるようですが、秀吉は肥後だけではなく、豊前・肥前の国衆までが反乱中だと、茶会前からすでに知っていた可能性が高いです。また10月13日になって、秀長・秀次、そして宇喜多秀家を討伐軍の責任者と定めているので、むしろ対応としては後回し。これらが茶会の早期終了の決め手にはならないと思われます。

茶会の早期終了理由については、参加人数が想定を大幅に下回っていたという「大爆死説」もあるのが面白いところです。つまり「打ち切り」だったというわけですが、こちらも残念ながら根拠薄といわざるをえません。

 大爆死説がケッサクなところは、自分の茶会に来てくれなかったイケズな京都人への報復として、秀吉が京都市内外を隔てる外壁=御土居(おどい)を建築し、取り締まろうとしたところまで組み合わせている点です。面白い仮説ですが、御土居の建造は茶会の4年後なのです。仮に茶会が大爆死だったところで、それと御土居を結びつけるのには無理があるのではないでしょうか。

 それゆえ、いくらアンチ秀吉層のガス抜きとして企画されたとおぼしき茶会だったにせよ、秀吉サマが「もう十分に楽しめたし、疲れたわー!」となってしまえば、その時点で終了する催しだった。それで仮に全日程が1日になっても無問題という「天下人の気まぐれ説」がもっとも実態に近いような気がする筆者でした。

 承認欲求の権化である秀吉の「庶民とふれあいたい~」とかいうワガママではじまり、「もういいや~」というワガママで終わってしまったのが北野大茶湯というイベントだったという話です。いわば秀吉が自分一人のために、期間限定のテーマパークを作ってしまったという……。

 この大茶会全体をプロデュース――とまではいいすぎにせよ、かなり深くコミットしていたと考えられるのが秀吉お気に入りの茶人・千利休(ドラマでは吉岡秀隆さん)でした。千利休も後に秀吉と対立し、切腹させられてしまっているのですが、おそらくそれも溺愛と拒絶がめまぐるしく入れ替わる「天下人の気まぐれ」に過ぎなかったのかもしれませんね……。

茶々は側室ではなく次妻だった?

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『エリザベート~神の手を持つ王女~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。最新刊は『幕末維新 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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堀江宏樹
最終更新:2026/11/01 12:00