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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送談義40

『豊臣兄弟!』旭姫の輿入れと数正の「出奔」のその後と「家康の上洛」という“筋書き”、そして秀長暗殺計画の史実性

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『豊臣兄弟!』に出演する池松壮亮、松下洸平、仲野太賀(写真:Getty Imagesより)

 前回(第40回)の『豊臣兄弟!』は、旭姫(ドラマではあさひ、倉沢杏菜さん)の離縁と再嫁が中心に描かれました。

茶々は側室ではなく次妻だった?

 秀吉(池松壮亮さん)が副田吉成(前原瑞樹さん)・旭姫夫妻を強制的に離縁させ、吉成には但馬への転封命令を出したが、吉成は世をはかなみ、出家してしまったという筋書きは『塩尻』などの江戸時代の史料に見られる「通説」どおりでした。副田は但馬の多伊城主だったとされ、「但馬への転封」はその伝承を踏まえた演出かもしれません。

「家」のため、個人の幸福を犠牲にせざるをえない夫妻、そしてそれを強制するしかなかった秀吉・秀長(仲野太賀さん)たちの苦悩は「大河ドラマ」でしか見られない人間ドラマであり、見応えがありましたね。

 旭姫が、兄や姉とは異なり、自分は「家」のために、何も具体的な働きをしていないことを負い目に感じ続けており、今回の離縁を受け入れたのはそれゆえだという描写も「なるほど」と思わずにはいられないものでした。

 また、この旭姫の離縁・再嫁と重ね合わされるように展開されていたのが、家康(松下洸平さん)のもとを「出奔」した石川数正(迫田孝也さん)の姿でした。「豊臣兄弟」の前で、滅亡覚悟で秀吉との主戦論を取り下げない徳川家康とその家臣たちには「愛想が尽きた!」と盛んに訴える数正ですが、彼の内意を理解した「兄弟」たちに「もうそのへんでよい」などと言われていたのは印象的でした。

『どうする家康』で描かれた「数正出奔」とは少し異なるものの、自分の「出奔」が家康出陣の抑止力になると思っていたという描かれ方が本作でも踏襲されたのは少々意外でしたが、その後も家康が「反・豊臣」の旗色を変えようとしないことを知った数正の絶望が描かれたことが筆者には興味深く思えました。

 短いシーンでしたが、おそらくこの部分に対応するのが、次回の「あらすじ」にも突然登場する「秀長暗殺計画」なのでしょう。

 次回は「家康の野望」と題し、「あさひ(倉沢杏菜)の輿入れも功を奏さず、上洛しようとしない家康(松下洸平)。だが秀吉(池松壮亮)がなか(坂井真紀)まで人質に差し出したことで、ついに根負けする。とはいえ、それは形ばかりの上洛だと察した秀長(仲野太賀)は、謁見前夜に接待の場で家康に胸の内をさらけ出し、豊臣が真に手を取り合うべき相手か見極めてほしいと告げる。しかし家康は、この機に乗じて秀吉の懐刀である秀長を暗殺しようと企てていた」。

 思えばドラマでは家康と数正の関係はとくに「深い」と描かれてきましたね。そこに「数正出奔事件」が起きて、それを知った家康が狂ったように笑い続けるという異様なシーンまでありました。

『どうする家康』では、数正と家康の「その後」は描かれぬままで終わりましたが、本作では(秀長を介して?)両者の再会が描かれるのかもしれません。そうでなくても、家康にとっては数正を「盗られた」相手が秀長だからこそ、暗殺しようとなるのでは……と、なんとなくピーンと来てしまった筆者です。次回の放送がより楽しみになってまいりました(笑)。

上洛を拒んだ家康の本心

 さて史実における旭姫の輿入れ後の豊臣政権が家康に対し、どのような準備をしていたかをあらためて振り返ってみましょう。「豊臣兄弟」が家康に求めていた上洛・出仕は、家康臣従にむけての最終手続きでした。ここで家康が上洛に応じなければ、「天正大地震」で取りやめになった徳川討伐計画が再開され、秀吉が三河の境目へ出陣し、秀長に北国衆・近江衆を付けて関東へ派遣するという「兄弟」総掛かりで家康をぶちのめす物騒な計画がありました。

 その横で、天正14(1586)年9月26日には、秀吉が浅野長吉(ドラマでは大地伸永さん)を家康のもとに送り、上洛を再要請しています。「戦争は外交の敗北」という事実は当時から変わらないのですね。

 またドラマでは「兄弟」たちが旭姫だけでなく、母親の大政所こと「なか」まで人質に送りつけたので、家康が根負けし、上洛に渋々、賛同する描かれ方になるようですね。

 史実では「兄弟」たちがより巧妙に家康を上洛に導いていたことが判明しています。大政所は、10月13日に上方を出発し、18日に徳川領の岡崎へ到着しました。

 名目は「旭姫への対面」ですが、実質は上洛中の家康の安全保証です。つまり、上洛させている最中に家康を豊臣家は攻撃しないという「保証書」が大政所だったのですが、ここまで家康は猜疑心に満ち、ピリピリしていると「豊臣兄弟」は考えていたのでしょうか(ちなみに「秀吉が老母まで人質に出し、家康を根負けさせた」というドラマの設定には、本作の考証者で、戦国時代が専門の黒田基樹先生は否定的です)。

 史実の家康は、行き道では「義母」大政所に対面せず(おそらく、急いでいたのだと思われます)、側近の井伊直政と本多重次の二人を護衛役に送り、帰り道で大政所にご挨拶……という流れとなったそうです。

 家康が急がざるをえなかった理由、そして実際には家康がイヤでたまらなかったであろう上洛への心理的抵抗を軽減した理由だったと思われるのが、臣従儀式後の11月7日に予定されていた京都での正親町天皇の譲位と、後陽成天皇が新天皇に即位するという一連の世代交代の儀式でした。財源不足の戦国期の朝廷において、歴代天皇の多くは譲位したくてもできず、多額の費用がかかる譲位儀式の実現は122年ぶりだったのです。つまり前回の譲位儀式を経験した者は誰一人生き残っていないので、こちらのリハーサルは家康の臣従儀式以上に入念だったことでしょう。

 このありがたいレアイベントに家康も一介の大名ではなく、「関白」秀吉の義兄弟――つまり賓客として参列させるという名誉が与えられていたわけですね。「飴と鞭」を使い分ける史実の秀吉の狡猾さには感心せざるをえません。

 かくして10月26日、無事に大坂入りした家康の宿所が秀長の屋敷でした(『家忠日記』)。このあたりも次回の放送で、石川数正と家康の再会、そして悶着があるのではないかと筆者が期待する理由ですが、実際は暗殺計画などはなく、臣従の儀式を翌日に控えた26日のうちに「会うのが待ちきれない」という口実で秀吉が秀長邸の家康を訪問し、家康の手を取って奥座敷で酒を酌み交わした記録まであります(『家忠日記』)。握手の習慣がなかった当時ですが、「手を取る」行為は、最高の親しさを表しました。しかし実際は「親しさ」を装いつつも、翌日の臣従儀式の段取り確認のつもりだったのでしょう。

 また一説には、秀長から家康に「儀式では徳川殿が兄(秀吉)に陣羽織を所望してください」と持ちかけ、それが実行されたともいわれます。

 陣羽織とは鎧の上から着用し、もとは寒さや雨雪から身を守るための衣服です。鎧同様に、武将その人を象徴する凝ったデザインに仕上げられることが多い代物なのです。

 さらに当日、その陣羽織を秀吉からもらうにあたって家康が「これを私が頂いたかぎり、もはや関白殿下に出陣させるようなことはありませぬ(=私・家康が秀吉公に敵対することは今後ありません)」と宣言した……というあたりは家康・秀吉時代を描いた歴代大河にも必ず登場の「名場面」として描かれます。

 しかし驚いたことに、同時代の資料には、この時に陣羽織が秀吉から家康に与えられた記録が確認できません。陣羽織をめぐるやりとりが登場するのは、幕末~明治初期に完成した『名将言行録』などで、当時の記録としては11月に秀吉から家康に「名物」の茶入、刀、鷹などが贈られ、返礼として、家康から秀吉へ馬10頭・金100枚などが贈られたとあるだけなのです。

 主従間に陣羽織のやりとりは秀吉・家康の時代にはしばしば見られ、秀吉が毛利輝元に与えたとされる陣羽織も現存していますが(毛利博物館所蔵の「黄天鵞絨地桐紋付陣羽織」)、少なくともつい最近まで一触即発の状態だった家康の臣従儀式では、軍事を象徴する陣羽織の授与は避けられたと考えるほうが自然ではないかと思われます。

 それはともかく、儀式終了後も家康は秀長の屋敷に滞在し続けました。少なくとも表向きは平穏が保たれ、最上級の饗応が続けられています。秀長は自領の奈良から春日社の神人・猿楽衆を招き、28日には能の名人・金春大夫による舞台が開催されました。

 家康は11月1日まで秀長邸に滞在し、その後も秀長は家康の「指南役」として、家老の藤堂高虎を通じて頻繁に連絡をとり、家康の聚楽第(じゅらくてい)屋敷の普請(=建築)に対して助言まで行っています。

 ここで補足しておきます。「聚楽第」は、関白・秀吉が京都に築いた政庁を兼ねた大邸宅(天正15年・1587年完成)です。しかし秀吉は自分の大邸宅を取り囲むように、主たる諸大名にも屋敷を建てることを望んでいたので、実際の規模は「邸宅」という日本語で想像されるよりも遙かに大きかったのでした。茶の千利休などにも屋敷が与えられていたようです。残念ながらそのすべてが現存しませんが……。このようにして多くの外様大名を臣従させてきた秀吉ですが、これほどまでの特別待遇を行ったのは家康だけでした。一般的には「家康が手強い相手だったので、そうせざるをえなかった」とされていますが、それは江戸時代に創作された「家康神話」に過ぎないというのが先述の黒田先生のスタンスです。

「すでに家康が秀吉の妹・旭姫の婿という格別の立場だったから、家族として礼を尽くした」とする黒田先生ですが、実際に「豊臣一族」になることの特別さを「兄弟」は家康だけでなく世間全体に示そうと思っていたのではないでしょうか。

 また天正15年(1587年)8月29日、秀長は当時の九州を代表する名門の当主・大友吉統とともに家康を自領・奈良に招待しています。この時は秀長みずから領国境の木津まで出迎え、彼らの奈良での宿泊所は興福寺にしています。王朝時代からの文化施設にご宿泊……ということで、秀長が強権的に支配した興福寺や春日社をさっそく家康などのアテンドのため、有効活用しているのには苦笑してしまいますね。

忠臣・石川数正はなぜ家康を捨てたのか?

(文=堀江弘樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『エリザベート~神の手を持つ王女~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。最新刊は『幕末維新 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

X:@horiehiroki

堀江宏樹
最終更新:2026/10/25 12:00