『汝、星のごとく』、「号泣した」「泣けない」大激論 “不幸の詰め合わせ”か“人間讃歌”か

10月9日公開の映画『汝、星のごとく』が、着実に興行成績を伸ばしている。公開初週末(10月9〜11日)の動員数ランキングで初登場4位にランクイン。その翌週(16〜18日)は順位を1つあげて3位となり、4週目(10月30日~11月1日)には2位へ浮上、興行収入は15億円を突破した。
本作は凪良ゆう氏の第20回本屋大賞受賞作を、『正体』(2024)で第48回日本アカデミー賞の最優秀監督賞に輝いた藤井道人氏が実写化。主演には横浜流星と広瀬すずの二人を迎え、共演には木村佳乃、尾野真千子、長谷川博己、松村北斗らが並んだ。主題歌は『君の名は。』(2016)『天気の子』(2019)などの劇伴で日本アカデミー賞最優秀音楽賞を3度受賞したRADWIMPSの「夕星-ゆうづつ-」。原作、監督、役者、主題歌、とヒットへの期待が高まる素材が勢揃いしたのは誰もが認めるところだが、評判はどうかというと、観客の反応は必ずしも一様ではない。
「刺さる」「刺さらない」二分する感想
〈映画館で過去イチ号泣〉〈人生に強く問いを投げかけられるような映画だった〉
〈泣けそうな材料を並べただけ〉〈何ひとつ共感できない〉
必ずしも「泣いた」が「高評価」に直結するわけではなくとも、「刺さる」か「刺さらない」か、「(自分は)アウェイ」か「アウェイじゃないか」がきれいに二分。感想が割れる中では、矢継ぎ早に不幸が襲いかかる展開を「浅い」と見るか、そこから考えるヒントをもらうかといった見方の違いや、個々人が生きてきた環境において作中に共感できるポイントがあるかどうかの有無なのでは、といった議論も活発だ。
本作の骨子は、瀬戸内海の小さな島で出会った高校生、櫂(かい=横浜流星)と暁海(あきみ=広瀬すず)の15年間にわたる恋愛物語である。幼い頃から恋愛体質の母親に振り回されてきた櫂と、父親の不倫により崩壊寸前の実家で暮らす暁海。家庭環境に恵まれず孤独を抱えた2人は、互いを唯一の心の支えとするようになり、やがて恋に落ちる。卒業後、櫂は漫画家を目指して上京し、暁海は母を支えるため島に残る決断を下す。
しかし、遠距離での生活や経済的な格差等がすれ違いを生む中で、親の交通事故や親友の未成年淫行疑惑、夢の挫折、自殺未遂、重い病気など、次から次へとそれぞれに不幸が重なり、2人を取り巻く環境は過酷さを増していく──。映画の中の誰かのの台詞ではないが、「ウソでしょ」と思わず口から出てしまいそうなほど、悲劇的な出来事が重なるのだ。
そうした展開には、2000年初頭のガラケー時代、売春や薬物、DVといった重たい出来事が連続的に襲いかかることで読み手を釘付けにし、一世を風靡した「ケータイ小説」を連想したという声も散見される。
藤井監督がまぶした“問題提起”
ただしことわっておかなくてはならないのは、そもそもの原作自体、さまざまな重たい題材が複層的に絡み合う小説で、単純な善悪や幸・不幸では割り切れない「逃れがたい苦しみ」が描かれているということだ。映画評論家・前田有一氏は、これだけ悲劇的な要素が詰まった原作を、映画として丁寧に成立させた藤井監督の手腕に着目する。
「リアリティがぶっ壊れるぐらいの不幸が続く。その点はまさに『恋空』や『Deep Love』のような“ケータイ小説み”があるのは確かでしょう。ただ、うっかりすればケータイ小説のように中高生向けの物語になりかねないところ、『社会の中で自分と他者が関わりをどう持つか』という問題提起をまぶすことで、リアルを実感できる映画に仕上げている」(前田氏、以下同)
この映画を「ただの恋愛物語ではない」という見方をする人がいる理由が、そこにある。
「原作未読でも展開が“ダイジェスト的”であることは感じられ、その背景が語られないキャラクターは全員浮世離れしているように見える。『あれってなんだったの?』と引っかかる場面も多々あります。たとえば、暁海が櫂の一人暮らし部屋を掃除していたとき、ベッドの下からシュシュを発見するシーンがありますが、おそらく誰か女性のものであろうことが辛うじてわかるだけで、実際に浮気していたかどうかは判明しないし、物語にも影響しない。暁海が“なかったこと”にしたまま、解釈は放り投げられます。こうした描写・演出を『粗さ・浅さ』と捉えるか、自分の人生や人間関係に重ねて何らかの『気づき』を得るかによって、本作の評価は変わってくるでしょう」
「観客の想像力を信じた」脚本
小説の映画化は、その原作にある出来事を限られた上映時間に収めるという点で、取捨選択の腕が問われるという難しさがある。原作小説を文章で読めば、読者のペースによって立ち止まったり読み返したりしながら背景や余韻までを汲み取ることができても、少なくとも映画館で見る映画はそうはいかない。観客は「今のなんだっけ」という疑問を抱いてもそれに即レスされることはなく(調べることもできず)、映画はそんな観客をリードする立場にある「没入感」ということになるだろうか。
昨年公開され、実写邦画で歴代1位の興収をあげた『国宝』の脚本家・奥寺佐渡子氏は、週刊文春CINEMAのインタビューで「初期の構想だと、6時間の作品になっていました」と明かしていた。実際の上映時間は175分なので、初期稿から実に半分以上の内容を削ったということになる。当時は、「(原作者の)吉田(修一)先生が全精力を注ぎこんでお書きになった原作を、『こんなに単純な話にしていいのか……』」という葛藤もあったという。
原作のエピソードをつなぎ、再構成したことで削られるものがあるのは絶対的な事実だ。ただし、原作を「そのまま」なぞることが映画作りではない。前田氏は「そもそも小説という形の“原作”が、映画という枠に収まるわけがない」と言う。
「エピソードや人物像を深掘りできない部分があるのは必然。ゆえにどこを捨てるか、作品のキモはどこなのか。そこを見抜く力が脚本には必要であり、また藤井監督にはそれを映像で訴えかける“才”がある」
プロダクションノートによれば、本作で藤井監督が挑戦したのは、「観客の想像力を信じ、余白を大切にする」ことだった。藤井監督は、脚本を担当した安達奈緒子氏からの意見を取り入れながら改稿作業を進め、それは2025年7月のクランクインまで約2年間続いたという。
「誰しも事情を抱えている」
本作には、さまざまな事情を抱え、それゆえに「身勝手」に振る舞う大人たちが多数登場する。妻子を置いて不倫相手と暮らす暁海の父、夫に捨てられたことから娘を縛りつける母・志穂(木村佳乃)、恋愛を優先し、息子の生活を顧みない櫂の母・ほのか(尾野真千子)。本作は「大人の身勝手さ」に振り回される子どもたち=櫂と暁海の物語だ。
自分は何も「悪い」ことをしていないのに、息苦しい。その時どきで世間、大人、社会の「枠」に生きるしかないけれど、自分には自分の魂がある。与えられた命を持て余しながら“最適解”を求めてさまよい、そして個々人の“最適解”がぶつかり合う。そのテーマ性は、2022年に映画化された同じ凪良氏原作の『流浪の月』にも通じる。
そんな中、櫂と暁海が通う高校の化学教師・北原草介(長谷川博己)が、子どもたちに「正義」を説く。「正しくあれ」と求めるのではなく、今を受け入れて生きていくための、“拠りどころ”としての「正義」だ。前田氏は、「北原先生が、この映画の思想そのもの」だと読み解く。
「この映画は徹頭徹尾、愛する人のために『常識』から外れていいのか? という話です。愛情と社会性の衝突の中で、多かれ少なかれ人は生きている。でも、北原先生だけは、ある種“ブッ飛んで”いて、『互助会』と称して偽装結婚をしたり、妻を“運命の相手”への看病に送り出したりする。『正しさ』と『常識』を完全に理解しながらもそこに縛られず、世間からどう見られるかより、自分が大切な人をどう助けたいかを大事にしている。人には事情がある、だから逃げたければ『正義』が必要だ、と北原先生は示してくれる」
章ごとに使い分けた「カメラ」
登場人物たちの人生を、映像でどう実感させるか。藤井監督のこだわりは、撮影に使うカメラの選択に表れている。
本作は17歳、24歳、30歳(〜32歳)の主人公たちの年齢に応じた3章構成で、各パートの撮影ではそれぞれ質感の違うカメラが採用された。第1章(17歳)は藤井監督がアマチュア時代に使っていたデジタル一眼レフ『EOS 7D』、第2章(24歳)はプロ監督としてのキャリアを支えてきた『ALEXA』。結末へと向かう第3章(30〜32歳)では、あえて『35mmフィルムカメラ』を使った。
監督自身の人生と重ね合わせた映像は上映2時間の中でも15年という時の流れに説得力をもたせ、前田氏は「巻き戻せない時間の儚さ」を感じ取ったという。メイクや俳優の巧みな演技も相まって観客も違和感なく引き込まれていく。
物語のラストには、「ケータイ小説的」にも見える悲劇の連続が、確かに生きた人間の証しとして立ち上がる、“ある仕掛け”が施されている。どれほど作り物めいて見える人生にも、大切な誰かと過ごした、その人だけの煌めきがある。
「藤井監督の映画には、社会のマイノリティや、地方から一人で上京し、東京の片隅のアパートで暮らすような人たちへのシンパシーがある。弱い立場にいる人や、普段は光の当たらない人たちに優しい目を向けながら、説教くさくは描かない。観終わった後には、何らかの希望や救いが残ります。
常識から外れてしまった人たちも、魅力的に映る。それは私たち自身が、自分なりの愛情と社会が求める常識との間で、折り合いを探しながら生きているからでしょう」
元来小説であれ映画であれ、物語の受け取り方は自由だ。さまざまな感想を抱かれるということは、それだけ一人ひとりの人生を照らすような作品ということでもあろう。
『アベンジャーズ/エンドゲーム:アンコール』 “映像追加商法”
(取材・文=町田シブヤ)